「岸 豊」の記事一覧
2022年5月30日
| 活動内容:移住・交流 |
芋井地区担当の岸豊です。今回は、農業振興のミッションのうち、自ら取り組んでいる農業についてご紹介させていただきます。
1回目のブログでも書かせていただきましたが、私は東京や高知に在住していたころから、7年以上家庭菜園を続けており、高知県にいた最終年には、自ら運営する無人市場やスーパーの直売所で、野菜やサツマイモを販売していました。
高知という温暖地の海抜100mの地から、現在は緯度も高く海抜850m前後の場所に大移動。まずは気候風土の違いに面食らいました。高知県をはじめとした太平洋地域では、年2回ジャガイモ栽培が可能、春の植付けは2月下旬から行われたりします。9月に植えた菜花が12月に咲いたりもします。
↑ 高原花豆=紫花豆の芽出し
勝手の違いはまだまだあります。次に困ったのが、農地が傾斜地であることです。接道する農道の一箇所は、軽トラが横転する危機感を覚えるような構造で造られています。地元農家さんはそこも何気なく運転され、その助手席に乗っていた際には怖さとともに驚きました。
芋井地区は、ほ場整備がなされていない棚田だらけのために、コンバインが入る水田も限られており、とても面食らいました。そのため、はぜ掛け米を高く販売しようと農家さんたちと協議したことがあります。
もう一つ耕作がしづらいと思ったのは、土質です。飯綱高原や栄峰、軍足地籍などを除いて、地域一帯が地すべり地帯にあり、粘土質の土に覆われているという地域特性があります。それを知らずに、5㌃ほどの荒地を開墾。葛などの残渣を焼き払い、焼畑農業的なことをしようとしたところ、耕運機を使っても、土がカチカチで粉砕できないため、ここでの夏野菜づくりはひとまず断念しました。
上記のようなことから、いま栽培を手がけている農地は3カ所+1カ所。①100本足らずのブルーベリー畑とその周辺、②黒土畑での夏野菜、③信州ソルガム(高きび)用地、これと断念した④開墾地をどう活用するか否か!?
ブルーベリー畑は、90歳前後になる方の園地を受け継ぎました。引き継いだタイミングが、元肥をあげたり冬季剪定の時期を逸したために、きちんと結実するか不安です。今月はコガネムシ対策の農薬散布を行いました。6月になったら追肥をしてあげます。後は、鳥獣害対策もしなければなりません。
↑ ブルーベリーの花
ブルーベリー畑の隣接地は、水捌けが極端に悪いとの周囲からの助言を受け、水が大好きなサトイモ(高知では田芋と読んだりする)とショウガを植えました。その隣には、山奥から採取してきた山ウドの移植も行いました。今後、それらがどう成育していくか見守っていきます。
夏野菜畑には、トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、ズッキーニといった夏野菜のほか、長野県の海抜が高い地域特産の高原花豆の栽培にも挑戦します。この花豆、海抜が100m下がっただけで成育不良となり、実の結実が極端に少なくなったりするそうです。屋内で芽出しを行った後、ポットで育苗した後に定食します。キュウリのように立派な支柱とネットも構えます。
夏野菜の畑には、イノシシとニホンジカ対策として電気柵を設置します。長野市の場合は、個人農家に対し、設備費を4割負担してもらえるとのことから、3万円余を投じて2段張りのソーラーパネル付きの電気柵を100mほど設置します。これをしなかったら、ジャガイモやサツマイモの作付けは不可能と思ってくださいと、JAの営農指導員さんに助言いただきました。
↑ トウモロコシの播種
↑ 夏野菜は、肥料の空袋で、成長を促し、害虫防除も
ソルガムは、長野市七二会地区の皆さんが、長野市や信州大学、地域おこし協力隊OBの方が起業した会社さんとともに耕作放棄地対策として注力する雑穀です。背丈が1.5〜2mになるイネ科の作物ですが、除草管理に努めていれば、稲作のように水の管理が不要のため耕作放棄地対策に向いているとのことです。粘土質は向いていないとのことから、希少な黒土のほ場を見つけて作付けすることにしました。
↑ 長野市七二会地区で開催された信州ソルガム播種講習会の様子
今後、これらの農作物の行く末について、本ブログでも引き続きご紹介させていただきたいと思います。
2022年3月28日
| 活動内容:移住・交流 |
芋井地区担当の岸豊です。今回は、長野市内にある源頼朝にまつわる話題を提供したいと思います。
長野市街地から担当エリアの長野市芋井地区に向かう国道406号線の途中に、「頼朝山トンネル」という表示があります。
鎌倉から遠く離れたこんなところに源頼朝が関係しているの?」と違和感を覚えていたのですが、よくよく調べてみると、ななんと、それは、まさしく源頼朝にちなんだものでした。
頼朝山は、善光寺の西側に位置する海抜644mの山。山頂は、上杉謙信が武田信玄と一戦を交えた際の見張り砦として使われた場所でもあります。
その頼朝山の中腹には、静松寺(じょうしょうじ)という浄土宗のお寺(下の写真が本堂、長野市茂菅)があります。寺の由来によると、開祖は、頼朝坊智盛(らいちょうぼう・とももり)法師。全国行脚をした後、善光寺に来て庵を建てたのが始まりだそうです。
この頼朝坊智盛は、死の間際に、自らの左手に「頼朝」と書いて亡くなったと言います。源頼朝は生まれた時、手のひらに「頼朝」と書かれてあり、それが元服後の名前になったとのこと。源頼朝は、頼朝坊智盛の生まれ変わりだと伝えています。
頼朝は、治承3年(1179年)に消失した善光寺の再建を命じ、建久2年(1191年)には落慶供養が行われたと言います。その翌年に鎌倉幕府を開いた後、建久8年(1197年)に善光寺を参詣したと伝えられています。
この善光寺詣の折、頼朝坊の遺跡を訪れ、「頼朝山法院静松寺」と名づけ、同寺を建立され、田地や山林を寄進したと言います。
静松寺参道の入口には、「浄土宗 頼朝山」という石柱があり、先の言い伝えを彷彿とさせます。
本堂には阿弥陀如来像が安置されています。天台宗として開かれた後、天正15年(1587年)に現在の地に再建されたそうです。
本堂に向かって左側には、開祖である頼朝坊が行脚していた際に背負っていた仏具や生活用品の入れた木箱の笈(おい)をまつった「笈仏殿(おいぶつでん)」(下の写真)があります。
善光寺と源頼朝にまつわるゆかりとしては、市内に「明助山普門院観音寺」(中御所)と「紫雲山頼朝院十念寺」(西後町)という二つのお寺もあると言います。
大河ドラマを楽しんで視聴なされている皆様は、4月3日から6月29日まで開催される善光寺の御開帳にあわせて、これらの史跡を訪ねてみてはいかがでしょうか?
2022年2月17日
| 活動内容:移住・交流 |
はじめまして、1月に芋井地区の地域おこし協力隊に着任した岸豊です。
私は長野県出身ですが、東京と高知を経て9年ぶりに長野に戻って来ました。
(高知県時代にしとめたイノシシ)
長野から東京に転勤して、大都会から脱出したくなり、最後の清流と言われる四万十川、川漁、鮎の友釣りへの憧れから高知県を移住先に選びました。
長野県には千曲川、天竜川、木曽川などの立派な河川がありますが、上流部には大きなダムが造られ、サケや鮎などの天然遡上が見られませんが、高知県ではいまも、鮎やウナギが遡上し川漁を愉しむことができます。
(四万十川で投げ網で自ら獲った鮎)
高知県は、東京や大阪といった大都市からも離れており、人口密度も低いせいか、トンボや蝶々などの生き物が、長野県よりかなり豊富に棲息していることに驚きました。
高知では、鮎の友釣りと投げ網、イノシシやシカのくくり罠猟にも従事し、4年間に70頭ぐらいを捕獲し、散弾銃も取得して長野入りしました。高知県の男性たちは遊び好きで、DIY力も高く、田舎暮らしを満喫している方が多いという印象があります。
専業農家を目指していたわけではありませんが、現地では菜園も手広く手がけ、昨年はサツマイモをコンテナで60箱収穫、拠点のある香美市内の国道沿線に無人市場も確保して夏野菜の販売も手がけていました。
(高知県香美市内に設けた無人市場。現地では良心市と呼ばれることが多い)
私の協力隊の任務は、飯綱の大座法師池の隣に、今春4月22日にオープンする道の駅「森の駅・Daiza houshi」を生かした農業振興です。
自分も4シーズンぐらい菜園生活を経験し、スーパーの直売所に野菜も出荷していたことから、芋井地区の生産者の方たちの後方支援のほか、当地域の地の利や伝統文化を踏まえた農産物の特産品開発などで貢献していければと思います。
(長野市飯綱の大座法師池近くに新設される「森の駅・Daizahoushi」の完成イメージ)
当ブログでは、月に1度、記事を投稿しますが、任務に関すること、芋井地区に関する話題、田舎暮らしの魅力などの内容をアップしていきますので、今後も、私のコーナーを気にしていただければと思います。