「岸 豊」の記事一覧
2024年6月 6日
| 活動内容: |
こんにちは、芋井地区担当の岸です。今回は、ニホンミツバチについてご紹介させていただきます。
昨年初めて自然入居に成功したニホンミツバチの飼育ですが、越冬に失敗してしまいました。年明けまで巣箱にいたのですが、ハチミツを残したまま、逃避したか、もしくは死滅してしまいました。芋井は海抜が高く、昆虫のミツバチには厳しかったということなのでしょう。
今年は、協力隊の卒業年で忙しいため、ミツバチの飼育は諦めていたのですが、狩猟採集の本能が覚醒してしまい、4月下旬から再開することとなりました。
昨年は、地元のお師匠様におんぶにだっこの養蜂生活でしたが、今年はかなり独り立ちをすることとなりました。
居なくなってしまったミツバチですが、野生のニホンミツバチを待ち箱に捕獲する=自然入居の取り組みが始まりました。
昨年、ミツバチが営巣していた2段重ねの重箱を2セット用意。これに、ニホンミツバチが好きなキンリョウヘンというシンビジュウム系の蘭のほか、この蘭の花の匂い成分を化学合成したミツバチルアーというものを2セット用意しました。
ルアーは1個3,800円もします。キンリョウヘンは運良くネットで安価にゲット。昨年仕入れたミスマフェットという同類の蘭は、年明けに根腐れを起こして枯らしてしまいました。
待ち箱とハチの誘因効果がある蘭とルアーの3点を用意。
後は、これをどこに設置するかが勝負です。
私は故あって、今年3月末に引っ越すことになったのですが、一つの巣箱は、下犬飼という集落の新宅付近、もう一つは人目につかない野生の花畑に設置しました。
花畑の方は、5月の連休明け、キンリョウヘンを巣箱の前に持ち込んだところ、直ぐに探索バチがやって来て、蘭の威力に驚きました。
いずれも、西陽が当たらず、かつ、樹木の下で雨に当たらない場所に置くことにしました。
すると、5月10日、5月11日、5月15日の合計3回、自然入居に成功しました。うち2回は、自宅近くの同一の場所に2回、待ち箱を新しいものに置き換えることで対応しました。
5月11日の入居の際は、ハチの引っ越しを目の当たりにすることとなりました。大群のハチが巣箱の周囲にやって来て周囲は騒然としますが、30分もしないうちにハチたちは巣箱の中に入り新居での生活を始めます。
ニホンミツバチは大人しく、人間は意図的に危害を加えなければ、人を刺すことはありません。スズメバチが侵入できない7㎜幅のスリット=巣門から出入りして生活するニホンミツバチは、健気で眺めているだけでも癒される大切な存在です。
2024年5月14日
| 活動内容: |
こんにちは、芋井地区担当の岸です。今回は、りんご栽培についてご紹介させていただきます。
これまでブルーベリー栽培は2年前からやっていましたが、果樹栽培の品目にりんごが加わりました。他のお二方を含めた3人による共同作業になります。
一緒に従事する地域の先輩男性が、栽培を継承してほしいと頼まれたことがきっかけで私も誘われ参加することに。体験農園向けにも活用できること、芋井を象徴する代表的な農産物であることから、栽培に挑戦することとしました。
りんごの木は全部で23本。サンフジ、シナノゴールド、秋映、つがるの4種類。同じ1本の木でありながら、接木により複数品種収穫できるものも存在し、いささか不思議な感じがします。果樹って面白い。
枝が大きく横に広がった大葉立てという栽培方法で、樹齢は40年前後でしょうか−。海抜は推定800m近くの高地にあり。北アルプスが見える風光明媚な場所。土地の傾斜は芋井とすれば比較的緩やかな条件の畑になります。
23本のうち、自分の受け持ちは1〜6番までの6本。果樹栽培のズブの素人で大丈夫かと、心配だらけのりんご栽培ですが、剪定から農作業が始まりました。剪定作業はチンプンカンプン。真上に伸びた徒長子をはじめ、混雑している枝を空いてあげると程度で終了してしまいました。
次は、果樹栽培には必須となる消毒です。J Aさんが指定する芋井地区におけるりんご栽培のマニュアルに従い、合計14回の消毒をすることとなりました。1回使用水量は450ℓ。軽トラにタンクを積んで農地に乗り込みます。
4月に2回、5月の連休明けに1回。これまでに3回の消毒を終えました。消毒は、中古の眠っていた動力噴霧器(略して動噴=どうふん)を修理に依頼することから始まり、一定のコツを掴むのに3回の機会を要しました。
体験農園に活用できると前述させていただきましたが、芋井地域における農的ライフに関心のある知人が摘花(花摘み)に来ていただいたことも良い思い出となりました。たわわに白い花を咲かせたりんごの木の佇まいはとても愛おしいものがあります。
りんごはこれまで、お店に並んでいるものを買ったり、もらったりして食べるモノとしてしか認識したことがありませんでしたが、膨大に咲いた花摘み作業の煩雑さから、日本の果樹農家の大変さを思い知るとともに、スーパーで何気に陳列されて売られているりんごの値段が、農家の手間を考えるととても安いものと痛感することとなりました。
2024年3月19日
| 活動内容: |
こんにちは、芋井地区担当の岸です。今回は、前回に続いて、芋井地区の貴重な財産である飯縄山と飯縄神社についてご紹介させていただきます。
前回のブログでは、あの有名な高尾山の総本山が飯縄山であるとお話させていただきました。その高尾山を昨年、地元の一行と訪ねた際、高尾山の僧侶が飯縄山の由来について話してくれました。
↑ 飯縄山
飯縄山は、山岳信仰の山として山伏が修行する霊山だったそうで、その開山は、戸隠山より早かったと言います。そして、飯縄とは、食べられる砂=メシ(飯)の砂(飯砂=イイズナ)が由来というのです。この砂が転じて、縄(づな)になったとのこと。
この飯の砂は、菌類かバクテリアかで実在したもので、通称「天狗の麦飯」と呼ばれています。山伏がご飯のようにカロリーとミネラルを摂取できるものとして実際に食し、国内で飢饉があった際、山伏が庶民に配り、人々を飢餓から救ったというエピソードもあります。
この麦飯の標本が、芋井公民館や戸隠地質化石博物館に残っているのですが、どちらも真っ黒に炭化した状態で今日に至っています。この天狗の麦飯は明治時代、化学者が大真面目に成分分析した資料も見つけることができとても驚きました。
↑ 芋井公民館に収蔵されている天狗の麦飯の標本
飯縄山と言えば飯縄大権現。そのご神体は、白狐の上に乗った烏天狗。日本各地には、数々の天狗伝説がありますが、飯縄天狗三郎は日本八大天狗に数えられ、その霊力は、もの凄く強かったようです。
飯縄大権現は戦勝の神様とも言われ、戦後武将からも厚く信仰されていました。上杉謙信は自らの兜のシンボル像に採用。芋井地区内の荒安集落にある飯縄神社里宮は、武田信玄が寄進して造られたものだそうです。また、室町時代には、足利義満が、地蔵菩薩像を飯縄神社に寄贈したとされています。
↑ 高尾山薬王院のHPから引用
このように山伏の修験道としては、戸隠山よりも開山が早かったとされる山岳信仰の山である飯縄山、そして、そこに祀られた飯縄大権現。この地元の貴重な財産を、今後の地域の未来のために大切に生かして行きたいと思います。
2024年2月15日
| 活動内容: |
こんにちは、芋井地区担当の岸です。今回は、芋井地区にある貴重なお宝についてお話させていただきます。
それは、タイトルにもあるように、スバリ、飯縄山のことであり、はたまた飯縄神社のことでもあり、その神様である飯縄大権現のことを意味します。
地域おこし協力隊員になる前から、長らく長野市民をしていた自分にとって、飯縄山は、長野市のシンボル的な山であるとの認識はありましたし、飯縄山にも過去何度か登山したことはありますが、戸隠山や会津磐梯山のような地域の財産として、飯縄山を崇めたことは一度もありませんでした。
ところが、昨年の秋、東京八王子市の高尾山の総本山が、飯縄山であるとの話を他人から聞かされ、直後に、地元の関係者一行と高尾山に訪れたことで、その認識は一変することとなりました。
高尾山は年間300万人が訪れる世界一登山客の多い山であるとのことです。昨年11月に訪れた際も、中国人をはじめとした海外の方たちで大変賑わっていました。
急勾配のケーブルカーを降りて、参道をある程度登り切ったところに、神社のようでもあり、ところによってはお寺のような建物やオブジェのようなものが沢山出現して来るのですが、銅像が烏天狗であったり、赤い天狗の仮面が飾られていたり、看板に書かれている文字は、何処も飯縄大権現のオンパレード。飯縄山の隠然たる底力に度肝を抜かれてしまいました。
元々、高尾山「高尾山薬王院有喜寺」は、西暦744年に聖武天皇の勅令により、行基が開山したとされています。その後、室町時代の1375年に京都醍醐山の俊源大徳が入山、飯縄大権現を本尊として中興したとされています。
訪問時は、飯綱高原観光協会の一行として訪ねたのですが、高尾山薬王院の僧侶たちは、総本山の住民である我々をとても厚遇してくださり、護摩焚きのほか、精進料理もおもてなしいただき、飯縄山、飯縄大権現のゆかりについてお話も丁寧にしてくださいました。
飯縄山、飯縄大権現の山岳信仰は室町時代から盛んになり、全国に300箇所以上の飯縄神社が全国各地にあるとされています。
飯綱高原では毎年8月10日に、飯縄火祭りが開催されるのですが、20年ほど前からは、高尾山の僧侶が、護摩焚きの儀式を執り行ってくれるほか、毎年6月5日の開山祭の折にも山伏の格好をした僧侶たちが飯綱高原を来訪されます。
次回は、地元の飯縄山、飯縄神社、飯縄大権現についてご紹介させていただきたいと思います。
2024年1月15日
| 活動内容: |
こんにちは、芋井地区担当の岸です。今回は、少し前に地元百舌原集落で開催されたそばの収穫祭についてご紹介させていただきます。
地元の百舌原地区には、地区内外の畑の荒廃地対策として、かれこれ20年以上、組合を組織して5haほどのそば栽培に取り組んでおり、私もお手伝いをしています。
毎年勤労感謝の日に恒例のそば収穫祭があり、生産者である組合員の夫と婦人が参加して、そば打ちをした後、そばを茹でて食べるのが習わしになっています。
私も、東京にいた頃、無性に田舎が恋しくなってか、そば打ちセットを購入して、そば打ちを数回体験したことがあるのですが、なかなか上手にはできないものと、そば打ちは縁遠いものになっていました。
今回体験したのは8割そば。そば粉と小麦粉、それに水を厳密に計量した後、まずはそばをこねます。ボールの中に粉を全て投入した後、水を少しずつ入れながら、手作業でこねて行きます。
最初はボロボロした粒子のような状態から始まり、段々と一塊の粘土のような状態になった後、今度は体重をかけながら念入りに仕上げます。この念入りなこねが腰の強いそばの大事なポイントのようです。
次に、この塊を、打粉をまいたそば打ち台の上で、木製の棒を使って四角形に薄く伸ばして広げます。
生地が適量な厚みと大きさに広がったら、今度は、この生地を適度な大きさになるまで半分に畳んで行きます。この際、重要なのは、生地と生地がくっつかないように打粉をふんだんにふること。これが良いそば打ちの重要なポイントです。
打粉が十二分にふられていると、生地同士がくっつかないので、初心者でもそばを細く切ることが可能になります。逆に打粉が十分でないと、太い間隔で切らざるを得なくなり、舌触りも食味もおかしな蕎麦になってしまいます。
出来上がった蕎麦は、薪でぐらぐら沸かした大釜のお湯で茹でた後、水にさらしてざるに乗せて出来上がり。
つゆは、戸隠にあるそば製粉工場特製の既製品。それが地元の方のお気に入りのようです。ねぎと青首大根のおろしとわさびをおつゆに入れて、いざ実食。戸隠そば名店で食べるのと遜色ない美味しさに、昨年初めて食べた際は、驚きと感動を覚えました。
食事会には、そば以外に、取り寄せたオードブルのほかに、某組合員妻がフィリピン出身のため、フィリピンの手料理とデザートもふるまっていただき、会場は、アルコールもあって大盛り上がりでした。
そんな恒例で楽しい収穫祭なのですが、そば組合には課題もあります。これまでは何とか、夏と秋の年2回、そば栽培に取り組んで来ましたが、今年は秋そば一本に集約することになりました。
夏そばを収穫した後、短期間に秋そばのたね撒きをしなければいけないため、担い手の高齢化で身体がきつすぎることからの決断とのことです。もっと深刻なのは、そば生産がこの先、何年続けられるか?という問題です。。。