源頼朝ゆかりの史跡が長野市内にも
2022年3月28日 | 活動内容: |
芋井地区担当の岸豊です。今回は、長野市内にある源頼朝にまつわる話題を提供したいと思います。
長野市街地から担当エリアの長野市芋井地区に向かう国道406号線の途中に、「頼朝山トンネル」という表示があります。
鎌倉から遠く離れたこんなところに源頼朝が関係しているの?」と違和感を覚えていたのですが、よくよく調べてみると、ななんと、それは、まさしく源頼朝にちなんだものでした。
頼朝山は、善光寺の西側に位置する海抜644mの山。山頂は、上杉謙信が武田信玄と一戦を交えた際の見張り砦として使われた場所でもあります。
その頼朝山の中腹には、静松寺(じょうしょうじ)という浄土宗のお寺(下の写真が本堂、長野市茂菅)があります。寺の由来によると、開祖は、頼朝坊智盛(らいちょうぼう・とももり)法師。全国行脚をした後、善光寺に来て庵を建てたのが始まりだそうです。
この頼朝坊智盛は、死の間際に、自らの左手に「頼朝」と書いて亡くなったと言います。源頼朝は生まれた時、手のひらに「頼朝」と書かれてあり、それが元服後の名前になったとのこと。源頼朝は、頼朝坊智盛の生まれ変わりだと伝えています。
頼朝は、治承3年(1179年)に消失した善光寺の再建を命じ、建久2年(1191年)には落慶供養が行われたと言います。その翌年に鎌倉幕府を開いた後、建久8年(1197年)に善光寺を参詣したと伝えられています。
この善光寺詣の折、頼朝坊の遺跡を訪れ、「頼朝山法院静松寺」と名づけ、同寺を建立され、田地や山林を寄進したと言います。
静松寺参道の入口には、「浄土宗 頼朝山」という石柱があり、先の言い伝えを彷彿とさせます。
本堂には阿弥陀如来像が安置されています。天台宗として開かれた後、天正15年(1587年)に現在の地に再建されたそうです。
本堂に向かって左側には、開祖である頼朝坊が行脚していた際に背負っていた仏具や生活用品の入れた木箱の笈(おい)をまつった「笈仏殿(おいぶつでん)」(下の写真)があります。
善光寺と源頼朝にまつわるゆかりとしては、市内に「明助山普門院観音寺」(中御所)と「紫雲山頼朝院十念寺」(西後町)という二つのお寺もあると言います。
大河ドラマを楽しんで視聴なされている皆様は、4月3日から6月29日まで開催される善光寺の御開帳にあわせて、これらの史跡を訪ねてみてはいかがでしょうか?