No.492
小渕
哲さん
LAGOM DOUGHNUT&DRINK(ラーゴム ドーナツ&ドリンク)・ HEIHACHIRO BAKE SHOP(ヘイハチロウ ベイクショップ)
自分らしく、ちょうどよく。心と体が喜ぶ、お菓子のある暮らし
文・写真 島田 浩美
現在、日本は何度目かのドーナツブームを迎えているとか。特にふわふわ、もちもち食感の生地がトレンドです。そんなドーナツの専門店として2022年5月に長野市西後町で開業すると、路地裏にある小さな店舗ながら、SNSで早々に話題をさらったのが「LAGOM DOUGHNUT&DRINK」です。
地元素材を無理なく使い、安心できるおいしさを大切に
「LAGOM」とは、スウェーデン語で”ちょうどいい・ほどよい”の意味。その名の通り、日常にちょうどよく、無理せず気負いせず、体にも心にもやさしい素材にこだわったドーナツを提供しています。素材はなるべく長野県産を使用。身近な場所から得た新鮮で安心な原料でおいしさを届けたい、地元の食材を消費することで少しでも土地のお金を回したい、という思いに加え、輸送に関わるコストや環境負荷も考慮しています。
材料の一部を見てみると、例えば、牛乳も卵も長野県産。生地は2種類の県産小麦粉をベースに、食感を高めるために北海道産小麦粉を少々ブレンドしています。全てを県産素材でまかなうのではなく、おいしさを追求しながら可能な限り使用するのも、“LAGOM”なバランスのよさです。
オーナーの小渕 哲さんは、北欧のような風情が漂う長野市戸隠の森のなかで暮らし、パティシエの妻とともに2人の子どもを育てながら、2019年にはドーナツ屋に先駆けて、長野市三輪で焼き菓子専門店「HEIHACHIRO BAKE SHOP(以下「HEIHACHIRO」)」をオープンしました。
1号店ともいえる、この「HEIHACHIRO」でも、地元食材を中心としたスコーンやショートブレッド、乳製品・卵不使用の「お豆富マフィン」、グルテンフリーの米粉のクッキーなど、素朴でシンプルな見た目ながら、厳選材料を使った味わい深い焼き菓子を提供しています。
▲「HEIHACHIRO」のコンセプトは「毎日食べたくなるお菓子づくり」。安心できる素材でやさしいおいしさの焼き菓子を提供する
▲戸隠産のそば粉を使ったクッキーやグラノーラも
もともと菓子製造の経験がなかった小渕さんは、妻から製菓を習い、本やインターネットなども駆使しながら、焼き菓子作りを習得。「HEIHACHIRO」で腕を振るいつつ、経営面を全面的に担当してきました。
ドーナツも作った経験はありませんでしたが、2号店としてドーナツ屋を開こうと思ったのは、出身地・群馬県に好きなドーナツショップがあったことがきっかけ。豆腐や地粉などを使った植物性のドーナツのおいしさに加え、雰囲気のある店の佇まいにも惹かれたと言います。
「ぼんやりと、あんな働き方がしたいなと思っていました。ただ『絶対にドーナツ屋をやりたい』と強い決意があったわけでもなく、『HEIHACHIRO』をはじめて2年ほど経ち、経営が落ち着いて心身ともに少し余裕が出てきたところで、ドーナツ屋の開業を意識しはじめました。ちょうど面白い物件との出合いもあって、流れがきた感じですね」
▲ドーナツのテイクアウト専門の「LAGOM DOUGHNUT&DRINK(以下「LAGOM」)」の店舗。窓から注文しつつ、厨房のなかでドーナツを作る様子を眺めることができる
立ち上げの経緯をこう振り返る小渕さんは「中学生の頃から『ガイアの夜明け』(経営再生など経済の現場で奮闘する人たちに迫る経済ドキュメンタリー番組)が好きだった」と話す通り、根っからの経営者マインドの持ち主とも言えます。
「経営者目線に妻のお菓子という視点が加わって、アンテナを張って情報収集もするなかで、長野市に個人店がなかったドーナツ専門店にたどり着きました」
同時に、飲食業や接客業ならではのやりがいも開業の後押しになりました。
「この仕事は、提供したサービスに対してお客さんが喜んでくれ、『おいしい』という感謝の言葉がダイレクトに聞ける醍醐味がありますよね。社会に必要とされ、認めてもらえているという存在意義を直接感じられることが魅力だと思っています」
だからこそ、顧客の喜びのために素材を選び抜き、生産者の顔が見える食材も大切に。さらに、従業員の幸せを考えて労働環境にも気を配り、緑豊かな戸隠で暮らすからこそ、自然環境にもできる限り負荷をかけないように配慮しているのも小渕さんの信条です。
▲「HEIHACHIRO」で使っている米粉は飯山市「やよい農園」のもの。米粉クッキーは卵と乳製品不使用
▲「『LAGOM』では優秀なスタッフとの出会いが魅力ある商品づくりにつながった」と小渕さん。産休中のスタッフもいるなど、個人店ながら制度を充実させ、働きやすさを大切にしている
群馬から戸隠へ。そして、菓子屋として長野市の街なかへ
小渕さんが長野市戸隠に移住したのは、23歳だった2013年。それまでは群馬県のスキー場で、スノーパーク(ジャンプやスライドを楽しむためのキッカーやジブアイテムを設けたエリア)を造成するアルバイトをしていました。
そのリーダー職を務めていたのが、スノーボーダーであり、長野市戸隠にある戸隠そばの有名店「山口屋」の長男でした。本業は「山口屋」でそばを打つ専務ですが、その冬は、スノーパーク造成のために戸隠から群馬県のスキー場まで通っていたのです。そんな彼から「グリーンシーズンの繁忙期に『山口屋』で働かないか」と誘われたことで、4月には「山口屋」で働きはじめていたというエピソードからは、小渕さんのフットワークの軽さが伺えます。
当初はワンシーズンだけの勤務のつもりでしたが、「山口屋」で人気のそばプリンやクッキーなどの特製スイーツを手がけていたパティシエの妻と出会い、2015年に結婚。戸隠スキー場近くの森のなかに自宅も構えました。その一角に菓子工房を設けると、2017年からは、かつて安全素材の焼き菓子の名店で働いた経験をもつ妻が「まめはち」の屋号でオリジナル菓子の製造・販売を開始。
「戸隠は個人事業主が多いので、自然と自分たちも何かやりたいという気持ちが芽生えていましたね」
こうした流れから、妻が大切にしていた材料へのこだわりは、小渕さんにもおのずと根付いていきました。
一方で「まめはち」の評判はじわじわと広がっていましたが、さらなる集客をめざし、市街地での出店を考えるように。善光寺門前を中心に、古民家や空き家をリノベーションした小さな個人店が次々と誕生していたことに惹かれ、毎月開催されている「空き家見学会」に参加するなど、少しずつ物件探しをはじめました。
そんななかで、空き家専門の不動産業者「MYROOM」の倉石智典さんに相談し、紹介を受けたのが、現在「HEIHACHIRO」を構える、築約50年のNTTの社宅だった建物です。観光地の善光寺からは離れた立地で不安はありましたが、決め手は広い駐車場でした。
▲住宅街にある3棟の団地の一角に位置する「HEIHACHIRO」。外の駐車場は6台が停められる
▲焼き菓子がずらりと並ぶ「HEIHACHIRO」の店内。ドライフラワーのディスプレイも印象的
告知や広告営業は一切しなかったため、2019年のオープン当初は周知に苦労したそうですが、もともとの「まめはち」人気もあって開店初日から集客は途切れず、おいしさは口コミで少しずつ広がって来客が増えていきました。
▲屋号の「HEIHACHIRO」は、かつて群馬県で金物屋をやりながら焼き菓子も販売していた小渕さんの祖父の名に由来。2023年9月に4周年を迎えた。現在は群馬県から移住した小渕さんの母も一緒に働く
たちまち人気に火がつくも、まだまだ進化し続けるドーナツ
こうして「HEIHACHIRO」が軌道に乗ると、小渕さんは漠然と思い描いていたドーナツ屋開業の構想に着手します。より善光寺門前に近いエリアを見込み、再び倉石さんに相談。すると「これから街の交流拠点として活用したい」と紹介されたのは、長野市西後町の旧NTT東日本長野後町北ビルでした。善光寺表参道の中央通りから少し入った、電報局としても活用されていた建物です。
現在は1階に古道具店やまちの案内所、相談所を兼ねたカフェが入り、2・3階がシェアオフィスやコワーキング空間になっている“まちづかいの拠点”「R-DEPOT(アールデポ)」として知られますが、中央通りからは外れた立地。当時、一帯を歩いたこともなかった小渕さんは、少なからず不安を抱いたそう。
「ただ、歩行者通行量調査を調べると通勤者が多く、近隣で営業しているメロンパンのテイクアウト専門店も長く営業していたので、ドーナツのテイクアウトの需要も見込めると考えました。なにより『交流を生む場所にしたい』という倉石さんの思いがあり、シェアオフィスには大手企業も誘致していたことから、きっと大丈夫だと思いました」
▲かつて倉庫だったスペースを改修した「LAGOM」は、3階建てのビルと通路を隔てた一角にある
こうして「R-DEPOT」の入居を決めたはよいものの、ドーナツのレシピは試行錯誤の連続。焼き菓子のノウハウは得ていたものの、発酵が必要なドーナツは違う苦労があったと言います。それでも何度も試作を重ね、独特のふわもち食感を生み出す製法を開発していきました。
素材選びのポリシーは先述の通りですが、揚げ油までこだわっているのも特徴です。食べたときの軽い口当たりを大切に、米油を使用。一般的なサラダ油に比べて高価ですが、フワッ、サクッと仕上がり、冷めてもおいしく、酸化しづらいので揚げ物特有の匂いもありません。
こうして編み出したドーナツを販売すると、立地に懸念を抱いていた小渕さんの不安はすぐに払拭されることに。インスタグラマーが集中して一気に周知され、瞬く間に人気に火がついたのです。
「もっと商品の知識や作り方があったほうがよかったとも思いましたが、いいスタートを切ることができました」
▲路地裏の店舗の目印のひとつ、“LAGOMおじさん”の看板
とはいえ、その人気に甘んじず、レシピは少しずつブラッシュアップしています。小麦粉は当初、100%長野県産を使用していましたが、冒頭での紹介の通り、現在は北海道産もブレンド。ブレンド比率も見直すことで、ふわもち食感を維持しながら、より歯切れのよい生地に仕上がっています。生地を練る時間やバターを入れるタイミングなども、開業以来データを取り続け、季節によって発酵の時間帯や温度などを細かく調整しています。
「ドーナツは小さな努力や細かいことの積み重ねで、どんどんおいしくできると実感しました。オープンしてから1年が経って、ようやくいろいろと安定してきましたが、まだまだ改良できると思っています」
▲メニューも少しずつ増え、開店当初から定番のプレーンやシュガーグレイズド、ココア、きなこ、チャイのほか、クリーム系やベーコンを使った惣菜系なども開発
▲一番人気はシンプルなプレーンドーナツだが、小渕さんのイチオシは「あんバター」。これもスタッフのアイデアから生まれたメニューだそう
進化し続ける一方で、変わらないものもあります。それが、揚げる米油の鮮度です。どんなに生地の素材がよくても、古い油で揚げたドーナツは油臭さが出てしまいますが、「LAGOM」のドーナツは、一口食べた瞬間から油がフレッシュなことがわかります。
「新鮮な油で揚げたドーナツを楽しんでいただきたいので、米油はまだ使える状態で交換しています。使い終わった油も廃棄処分するのではなく、塗料の原料などとして、業者を通してリサイクルしています」
環境負荷軽減も、経営との兼合いを考慮すると無理のない範囲に限られます。それでも、自分たちのバランスを大切に“LAGOM”の精神で取り組むのが、小渕さんのスタイルです。
客層は幅広く、女性が多いものの男性も3割ほどだそうで、比較的年齢が高い方も多いのだとか。
「常連のお客さんの顔もわかるようになってきて、犬の散歩の途中で来る人もいらっしゃるし、杖をついている方や、ベビーカーを押してくる方も気軽に立ち寄ってくれるので、われながら、人を選ばない、いい店だなと思います。街に愛されてきたなと感じるのがうれしいですね」
特に印象に残っているのが、とある女子高生の言葉。
「『大手のドーナツチェーン店よりこっちのほうがおいしい』と言ってくれた若い子の言葉はすごく自信になりました。 『家族みんなが大好き』と言ってくれる子もいますし、1個だけの購入でもありがたく、しょっちゅう買いに来てくれるのを見ると、本当にうちのことが好きなんだなと伝わってきてうれしくなります」
▲テイクアウトしたドーナツは「R-DEPOT」1階のカフェでイートインも可能(ただし要1ドリンクオーダー)。カフェでは120円でドーナツにアイスクリームのトッピングもOK
▲「R-DEPOT」1階では、古道具の展示販売も
チェーン店や大手企業と比べ、差別化しやすいのが個人店のよさ。だからこそ、これからも目の前のお客さんを大切にしつつ、多くの人に喜んでもらうためにもスタッフの待遇にも配慮し、商品力を高めていきたいと小渕さんは話します。
「世の中で長年愛され続けている商品でも、変わっていないように見えて、意外と時代に合わせてちょっとずつ変化しているものがあります。その変化は、お客さんが求めていることを突き詰めていった結果なのかな。そう思うと、商品の改良は終わりがないですね」
自然豊かな戸隠と市街地を行き来する、循環の輪が広がる暮らし
現在の小渕さんの働き方は、朝6時30分頃から「HEIHACHIRO」で焼き菓子を作り、10時頃からドーナツを揚げるために「LAGOM」へ。戸隠から数十分かけて市街地まで通っていることを考えると、ハードな生活のようにも思えますが、長い通勤時間がよい気分転換にもいることに加え、戸隠の暮らしは快適そのものだと言います。
「夏はクーラー要らずで心地よく、冬は薪ストーブで暖まって、火のありがたさを感じます。冬の除雪や夏の草刈りは大変ですが、自然と向き合う時間は仕事では感じられない“生きている実感”が得られ、些細なことに喜びが感じられるのも戸隠の暮らしのよさです」
森と街を行き来し、2店舗を巡り、循環の輪を広げていく小渕さんの暮らしは、まるで「LAGOM」のドーナツのよう。無理のない、ちょうどいい心地よさがあります。そもそも「LAGOM」の語源は、かつてのバイキングたちの言葉「Laget om(ラーゲット・オム)=仲間と分け合う」から来ているそう。輪になって酒を回し飲みするときに、それぞれがちょうどいい量を飲み、分け合うことを大切にする、スウェーデンの幸せ哲学の精神です。
▲「LAGOM」で残ったドーナツは「HEIHACHIRO」でラスクにしているのも、資源循環の取り組みのひとつ
そんな“LAGOM”な暮らしから生まれたドーナツは、あくせくした現代人の日常に穏やかな幸せを分け与えてくれるようなおいしさと、やさしい滋味深さに満ちています。
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会える場所 | LAGOM DOUGHNUT&DRINK 長野市西後町610-12 電話 080-8711-7995 ホームページ https://www.instagram.com/lagom_doughnut/
HEIHACHIRO BAKE SHOP |
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