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No.345

武井

祐子さん

武井旅館 五代目女将

大好きな戸隠を次世代へ

文・写真 みやがわゆき

宝光社に生まれて

戸隠神社宝光社の参道に向かって左側に、立派な茅葺き屋根の旅館があります。旧福寿院武井旅館。その五代目(明治以降)の女将さんが、武井祐子さん(以下、祐子さん)です。 
朗らかな笑顔とよく通る声が印象的な祐子さんは、戸隠神社宝光社の聚長(しゅうちょう)家の長女として生まれ、同じく宝光社の聚長家に嫁いだという、大変貴重な「戸隠人」。そんな祐子さんのエピソードには、戸隠の歴史の予備知識が必須となりますので、少々脱線を。
 
平安の昔から高野山、比叡山と並ぶ霊場として知られ、「戸隠十三谷三千坊」と称されていた戸隠。江戸時代には、戸隠山顕光寺という天台宗の寺院があり、将軍家から千石の神領を与えられ、手厚く保護されていました。しかし、明治政府の廃仏毀釈政策により状況は一転します。苦渋の決断を迫られた末、戸隠山顕光寺は戸隠神社に名前を変え、僧侶は、還俗して神主となり、戸隠の地を守っていくことになったのです。
そして、全国各地の戸隠講の信者を統率したのが、「聚長」です。かつては戸隠中社地区・宝光社地区に併せて37軒あり、その多くが、現在も旅館業を営んでいます。
武井旅館の創業は江戸中期。約300年の間、戸隠を訪れる客人を迎えてきた歴史を、茅葺屋根の母屋とともに、今に伝えています。

長野の高校を卒業後、調理師学校に通い、調理師免許を取得した祐子さん。卒業後はそのまま調理師学校に助手として就職。3年ほど調理の現場での仕事に携わりました。各地で開かれる料理講習会などにも同行し、忙しくも充実した日々でしたが、当時は女性の結婚年齢が早かった時代。二十歳を過ぎたばかりの祐子さんもご多分に漏れず、縁談を心配してくれる人がいました。最初の縁談は、遠く離れた家だったので、「祐子は善光寺の鐘の音が聞こえる所におきたい」というご両親の希望もあり、まとまりませんでした。
時を同じくして、武井家では、次男の喜信さんが家業を継いでいましたが、病弱だった母親を手伝える女性従業員を探していました。そして、両家のことをよく知る方によって喜信さんと祐子さんの縁談がすすめられる成り行きに。

長野市の景観風致建築物にも指定されている武井旅館。2014年から3年にわたって行われた母屋の茅葺き屋根葺き替え工事は、今秋、竣工を迎えました。

嫁として、母として迎えた試練

武井家は、祐子さんの実家から歩いて30秒ほどの距離にありましたが、二人は、学年が離れていたため、大人になってからはほとんど顔を見たことがなかったそうです。当事者同士は、乗り気ではなかったものの、“これからは、聚長家同士の結びつきも重要”という周囲の働きかけによって、喜信さんと祐子さんは結ばれることになりました。
 
「聚長家に生まれたけれど、女だし、結婚したら家を出ると思っていたから、実家ではそば打ちも教わらなかったの。父親の白衣や足袋の洗濯もした事がなかったですね。」

初々しかった祐子さん。初めの頃は、武井家の家風に馴染めず、お姑さんと衝突を繰り返したそうです。

「聞けばいいことを聞かずにやってしまい、後で「お前はずいぶん偉いんだね」って怒られましたね。すぐ実家に帰れるけれど、すぐ迎えに来られてしまうんです。」

今でこそ、笑い話にはなっても、当時は相当の苦労があったことが想像できます。結婚して1年後、最初の子を授かりましたが、“今度こそ家を出よう”と思うことも度々あったと振り返ります。けれど、事ある毎に「ならぬ堪忍、するが堪忍。昨日我慢できたことは今日も明日も我慢できるからがんばりなさい」と励ましてくれた実家の母親と、いつも陰で見守ってくれたご主人のやさしさが祐子さんの支えとなりました。
長女が生まれてからは、母親としての責任感とたくましさを身につけた祐子さん。同時に、お舅さん・お姑さんも孫の面倒をよく見てくれる〝おじいちゃん・おばあちゃん″となり、旅館の若女将としての祐子さんの仕事にも力が入るようになりました。
長女が生まれた2年後には次女が生まれ、さらに2年後、3人目の子を授かりました。幼い姉妹と過ごす祐子さんの忙しくも幸せな日常…そんな中、予期せぬ悲劇が起こりました。長女・真由香さん(当時5歳)の事故死でした。4月の庭先で、雪の重みで揺らいでいた燈籠の石が、真由香さんの頭を打つという、魔の一瞬でした。
その出来事を目の前で見ていた祐子さんと、外出先から急ぎで帰宅したご主人の、ショックと悲しみを、文章で表現することはできません。祐子さんの涙が枯れることはなく、ご主人は、毎晩、愛娘のお骨の前で深酒をするようになりました。

「泣いてばかりいると、お腹の子の胎教に悪いと言われたけれど、ふとした瞬間に思い出しては涙が流れました」

長女の急逝から2ヶ月後、新たな命が誕生。武井家の跡取りとなる男の子でした。長女を失った喪失感を抱え、励ましたり、励まされたりしながら、夫婦二人三脚で子育てと、家業に奮闘しました。

武井旅館の裏手に広がる田園地帯が祐子さんの息抜きの場所。子供の頃、日が暮れるまで遊んだ。

至る所に花が生けられている館内。季節になると、ご主人が枝ごと採ってきてくれることも。

無我夢中で駆け抜けた時代、そしてこれから

長男が生まれた頃は、バブル経済の全盛期でした。戸隠にも多くの観光客が訪れ、とりわけ、学生の夏合宿の利用が爆発的に増えました。大人数の料理、洗濯、掃除、ご主人は祭事や送迎等、毎日がめまぐるしく過ぎ、まさに〝無我夢中″だったと、祐子さんは振り返ります。その忙しい最中に4人目となる次男が生まれました。末っ子とは言え、手をかけて育てた覚えはなく、七五三の写真も撮っていなかったとか。
「あいさつだけはしっかりできるように。あとは、親の後ろ姿を見て、良いところも、悪いところも見て、学んでもらえればという感じでしたね。」

バブルが崩壊すると、旅館の経営も落ち込み、苦しい時代もありましたが、ご両親の支えもあり、子どもたちは健康に成長しました。

ようやく子育てが一段落したと思ったのも束の間、お舅さんが病に倒れました。その後、両家の親が順番に倒れ、ご夫妻は10年で4人の親を見送ることになりました。

「お義母さんが、入院して、亡くなる3ヶ月前に、初めて“今までありがとう”“感謝している”と言ったんです。その言葉ひとつで、それまでのことがチャラになっちゃった。」

お姑さんの病状が悪化し、食べ物も喉を通らなくなると、手をさすったり、拭いたり、精一杯の看病をした祐子さん。お姑さんは、いつも祐子さんがお見舞いに来るのを楽しみに待っていたそうです。

長い歴史のある武井旅館には、50年、60年前に泊まったという、過去を懐かしんで「帰ってくる」お客も多いそうです。そんなお客さんの昔話を聞きながらおもてなしをするのが好きだと、祐子さんは話します。

「ふるさとがない人たちの、ふるさとになれれば、と思います。そのために、どこにいっても「戸隠の人は親切だね」って言われる地域にしたいですね。」

戸隠では、今、これからの戸隠のあり方を一生懸命考えている若い人たちを中心とした動きがあります。けれど、戸隠では周囲に無関心な人が多い、と祐子さんは憂います。この現状を変え、若い人たちを応援するために、〝出る杭″になってもいいと考えている祐子さん。戸隠に生かされていることに感謝し、少しでも地域のお役に立てればと、今年は地区の民生・児童委員の仕事も引き受けました。まさに、戸隠の魅力を高める〝人材″だと感じました。

お客さんから届くお礼状も、大切な宝物のひとつ。

(2016/11/04掲載)

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会える場所 武井旅館
長野市戸隠宝光社2164
電話 026-254-2520
ホームページ http://www.takeiryokan.jp/
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