No.01 SPECIAL TOPICS
井原
羽八夏さん
井原羽八夏さん ナノグラフィカ
町の公民館として 表現の交差点として
文・写真 安斎高志
町の公民館のような場所
ナノグラフィカの畳敷きの喫茶スペースは不思議な空間です。
地元の人が集まって町の行事について話し合っている横で、旅行者がコーヒーを飲んでいて、そこに2階で暮らしている小学生が帰ってきたりします。善光寺門前で暮らしたい人、何かしらの表現をしたい人などが、相談ごとを持ち込んでくることもあります。
門前暮らしの面白さを発信する編集室が奥にあったり、そのメンバーが音楽や演劇活動をしていたり、2階の住居スペースに至る階段が喫茶室の中にあったり、そうしたさまざまな要素が絡み合っているからでしょうか。
その不思議な空間で、主に喫茶室の店番をしているのは、井原羽八夏さん。県内のライブハウスを中心に音楽活動をしているシンガーソングライターでもあります。凛として、かつ透明感のある歌声が聞く人の心を魅了します。
さまざまな相談ごとが持ち込まれるナノグラフィカですが、井原さんには、相談事をすべて自力で解決しようという肩肘張った雰囲気はありません。
「自分でできることは限られているので、『じゃあ、あの人のところに行って相談してみたら』とか、『あそこで人が足りないから行ってみたら』とか、必要に迫られて紹介しているうちに、何とかなったりする。ここは町の公民館という役割もあるのかなと思っています」
井原さんは、ナノグラフィカで活動を始めてから4年目を迎えます。元々、「閉じている性格だった」と振り返りますが、それでもナノグラフィカでの日々のおかげで、徐々に自然体で人と接することができるようになったといいます。
知り合いからゆずりうけたアコーディオンは、軽くて小さめ。外へ持ち運ぶのにも楽で重宝している
停滞期に回ってきた喫茶室の店番という仕事
井原さんはナノグラフィカのメンバーになる前、出版社で書籍の編集をしていました。しかし、その会社が倒産してしまいます。職探しをしている時、憧れを抱いたのが、ナノグラフィカのメンバーでした。
「ナノグラフィカのメンバーは、みんな手に職を持って、その仕事で世の中と繋がっているように見えたんです。自分もそういうところに身を置きたいと思いました」
そして、もう1つ井原さんの目に写ったナノグラフィカの魅力は、包容力でした。
「ここの畳で、近所のおじいさんが酔っぱらってつぶれているんですけど、みんな全然気にしていなかったんです。このおじいさんを受け止めている、この人たちっていいな、この光景っていいなと思えたんです」
当初、井原さんは、ナノグラフィカでも編集の仕事をしながら、並行して音楽活動も活発化させるつもりでした。
「ナノグラフィカでは編集の仕事は、自分自身でつくるもので、あって当たり前の仕事ではありませんでした。その時、編集の仕事をそれほどしたかったわけではないことに気が付いたんです。それで、一年間くらい悶々としていました。そして同時に、音楽活動の方も停滞期に入っていました」
その間、ナノグラフィカの他のメンバーは、新しい仕事にとりかかったり頼まれたりと忙しくなり、いつの間にか自然と井原さんが喫茶室の店番をすることになります。
「自分で楽しいことをつくりだせている気がしない。毎日毎日、ここに拘束されているという気がしていたんです。自分でここに来たくせに。自分が喫茶に据えられたときは、はずれくじをひいたような感じでやっていたんですよね、いま思えば」
しかし、純粋な気持ちでナノグラフィカを訪れてくれるお客さんに接するうちに、気持ちはほどけていきます。
「ここに来られてうれしいとか、ここの展示を見られてうれしいとか、お客さんが純粋にうれしいという表情を見せてくれることがあります。一杯ずつ手おとしの珈琲の味に自信がなかったり、飲み物を出すのに手間取ってしまっても、心から『ようこそいらっしゃい』という気持ちを持とうと思うようになりました」
そして、もう1つ、井原さんを変えてくれたのは音楽の存在でした。
月替わりで手作りの作品を展示するギャラリーでもある。井原さんを中心に企画している
アコーディオンでのミニコンサートが変えたこと
元々、ピアノ弾き語りのスタイルでライブ活動を行っていた井原さん。2011年ごろから喫茶番をしながら、アコーディオンを練習するようになります。
「当時は音楽活動も停滞期に入っていました。始めて3年ほどは無我夢中でやってきて、さて気づいたら、ステージ上にいる自分しか見えていなかった。だれかとつながりたくて音楽をやっていたはずなのに、お客さんを無視して歌っている自分に違和感を感じていました」
そんな状況から引き上げる一言を投げ掛けてくれたのが、ナノグラフィカ代表の増澤珠美さんでした。
「『音楽がやりたいって言うなら、ここ(ナノグラフィカ)で何か定期的に演奏したらいいじゃない』と言ってくれて。実際、畳の上でアコーディオンを弾き始めたら、喜んでくれる人が案外いたんですよね。まず街のおじさんたちが喜んでくれた。大々的ではないけれども、ちゃんと続けられる道をやっていこうと思いました」
それから、名前の羽八夏にちなんで毎月8のつく日、午後3時から、喫茶室で15分ほどのミニコンサートを開くようになりました。だれも来なかったり、店の外から「何をしているんですか」と問いかけられたりすることもありますが、これまで2年ほど続いています。
「この小さな空間で、さらに店番をしながらとなると、お客さんを無視できるわけがないんですよね。それが自分にとってはすごく訓練になっています。今までステージの上と下というふうに線を引いていたのが、同じ地平に立っている感覚になれて。そうしたら、ライブハウスでのライブもすごく楽しくなってきました。お客さんをちゃんと感じて演奏したいと思うようになってきたんです」
コーヒー豆は京都のオオヤミノルが焙煎したものを使用。井原さんもオオヤさんがナノグラフィカに来たときにハンドドリップでの淹れ方を習った
夢がかなった。その次は
シンガーソングライターとしての井原さんは最近、夢がかないました。それは、予想外で、突然にやってきた瞬間だったといいます。
「ご近所さんが私のCDを買ってくれて、その家の子が保育園の送り迎えの時に車で聞いてくれていたようなんです。ある日、店の窓から『今日、はやかちゃんの歌を聞きながら帰ってきたよ』と言って、私の歌を歌ってくれたんですね。そのときに、心の中で福音の鐘の音が鳴って、夢がかなったと感じたんですよね。私の夢は日本武道館だと思っていたけど、違ったのかもしれないなと。今は、『さて、この先どうするかな』という感じですね」
予想外に夢はかなったものの、表現活動は続けていきたいと話します。
「ナノグラフィカは、演劇や音楽、言葉だったりと、いろんな表現の交差点でもあるので、自分の活動の範囲を限定せずにかかわっていきたいです。ナノグラフィカのメンバーと、この店と、そして自分が表現したもので、世界と繫がりたい。それが今やりたいことだし、やれていることとも思っています」
そう話す井原さんの表情からは、歌声と同じように、凛とした印象を受けるのでした。人前で歌うようになったのは大学卒業後という遅咲きのアーティストは、これからも “表現の交差点”で少しずつ成長を続けていくことでしょう。
畳敷きの店内では、日本酒を楽しむ会など、地元の人が集う催しが多数ある
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