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ナガラボはながのシティプロモーションの一環です

No.488

西

達也さん

グラフィックデザイナー

40代半ばでようやくスタートラインに。グラフィック表現の成長を求めて

文・写真 くぼた かおり

長野県内を拠点にしているデザイナーやフォトグラファー、イラストレーター、ライターなどさまざまなクリエイターが参加・運営している長野アートディレクターズクラブ(以降、長野ADC)。会員同士が交流をしながら技術の向上などを図っています。会員の1人で2022年度より実行委員長を務めているグラフィックデザイナーの西達也さんは、長野ADCに入会してからデザインへの向き合い方が変わったといいます。紆余曲折をしながらも今が一番楽しいと語る姿を追いました。

自分のルーツが恥ずかしかった学生時代

長野市街地から山間地へと進むこと約30分、戸隠エリアのほぼ中心地にある豊岡地域に西達也さんの事務所があります。かつては茅葺き屋根だったであろう特徴的な三角屋根の小ぶりな建物は、兼業農家だった西さんのお父さんが農業用具の倉庫として活用していました。どこを見渡しても、あるのは自然。一見居心地良さそうに感じられるこの風景ですが、生まれ育った戸隠の地に苦い思いを抱いていました。
 
事務所に隣接する薬師堂。昭和30年代まで周辺の各家庭で祀られていた仏像が移されている
▲事務所に隣接する薬師堂。昭和30年代まで周辺の各家庭で祀られていた仏像が移されている
 
「まわりの人と比べると晩婚で年老いた両親、古くて大きな家、戸隠という土地柄、そのどれもが若いころの自分にとっては嫌で仕方がなかった。だからどこかで自分のルーツを恥ずかしく思っていました」
 
同級生には以前「ナガラボ」で紹介したFLATFILEのモリヤコウジさんがいます。インテリアデザインの勉強がしたいと目標を持っていたモリヤさんの一方で、西さんは将来なりたい姿が全くイメージできずにいました。迷った挙句、スポーツが好きという理由からスポーツトレーナーなどを育てる体育の専門学校に進学。東京へ行きたい思いと戸隠を離れたい思いだけで決めたため、入学しても何かが違うという葛藤は続き、大学への編入を志す友人の話しなどを聞くうちに1年生の終わり頃には退学したい気持ちが強くなったといいます。結局は両親の説得もあり卒業まで通い続けましたが、スポーツクラブでのインターン実習などを重ねるうちに、やはり自分には向いていないと確信します。
 

“やりたいこと”と“やらなければならないこと”の狭間にいた20代

卒業後のある日、書店で雑誌『STUDIO VOICE』を手に取った西さん。特集されていた写真家ロバート・キャパの写真に衝撃を受け、写真に興味を持ち始めます。ほどなくして写真スタジオのスタジオマンとしてアルバイトを始め、撮影補助などをするように。ゼロから飛び込んだ世界でしたが、写真が好きだったり、フォトグラファーを志望する同世代の仲間と出会えて刺激的な毎日を過ごします。
少しずつ知識と経験を蓄えてアシスタントをしていた頃、1つ目の転機が訪れます。それが結婚でした。まだ22歳だった西さんは、夢を追うことよりも家族のためにお金を稼ごうと印刷会社に入社します。
 
印刷会社で使われていた写植の文字盤。時代の流れで使われなくなり、記念にもらったそう
▲印刷会社で使われていた写植の文字盤。時代の流れで使われなくなり、記念にもらったそう
 
「当時はパソコンが世に出始めたばかりで、これを習得すれば向こう10年は職を失うことはないだろうと。とはいえパソコンスキルがなかったので何社も落ちて、最終的に家族経営の小さな印刷会社に雇ってもらいました」
 
その会社では制作部に所属。部署には西さんを含めて3人いたので、当時三種の神器と呼ばれていた3つのアプリケーション(クォーク、イラストレーター、フォトショップ)の担当をそれぞれにふり分けて仕事をしていました。
西さんは主にイラストレーターで制作する案件を担当、チラシや名刺の実制作をしながら印刷物に必要なスキルを学んでいきました。
環境が良かったこともあり、気づけば丸5年。デザイナーとしてのスキルが上がり自信も付いているのかと思いきや、グラフィックデザインの仕事をしている意識は皆無だったそう。
 
「当時はグラフィックデザインという言葉も、グラフィックデザイナーという職業も知りませんでした。会社側もパソコン知識がどれだけあるかを重要視していましたね。個人的には家族のためにお金を稼ぐことで精いっぱいでした」
 
窓から見える四季折々の戸隠の景色。厳しくも美しい自然に心が整うようだ
▲窓から見える四季折々の戸隠の景色。厳しくも美しい自然に心が整うようだ
 
初めてその言葉や職業を知った26、27歳のとき、本格的にグラフィックデザインに取り組みたいと一念発起。作品らしい作品が少ないなか何社も面接を受け、エリア情報誌の制作を主とするエディトリアルデザイン中心の制作会社からようやく採用をもらうことができました。
28歳でデザインの世界に足を踏み入れてはみたものの、それまでとは全く異なるページものの制作は知らないことばかり。アートディレクターから日々ダメ出しを受けながら、エディトリアルデザインの基礎を学んでいくようになります。情報誌の制作は時間的に苦しいものの、それ以上に「デザインをしている」という面白さや楽しさの方が勝っていたという西さん。この会社で実績を積み重ね、目標であった広告やグラフィックを主とするデザイン事務所に転職したのが31歳のころ。最終的にはアートディレクターを任されましたが、クライアントとの距離感やデザインそのものに満たされることはなく、次第に生まれ育った地元・長野の仕事がしたいと思うようになります。
 

再び長野市へ。両親の介護を経て、ようやくたどり着いた表現

こうして2011年、36歳で長野にUターン。2013年にはフリーランスのグラフィックデザイナーとして独立。仕事場として最初に選んだのは、同級生のモリヤさんが長野市桜枝町(現在は同市小鍋)で開いた額縁工房&ギャラリー「FLATFILE」の一室でした。
 
2013年にはフリーランスのグラフィックデザイナーとして独立。仕事場として最初に選んだのは、同級生のモリヤさんが長野市桜枝町(現在は同市小鍋)で開いた額縁工房&ギャラリー「FLATFILE」の一室でした。
 
「最小限のスペースがあればいいと思って、2畳ほどのスペースを使い始めたんです。でも、デザイン関連の書籍は一切持ってなくて……今ふり返るとデザインに対する意識は低かったです。仕事は少なかったのに、根拠のない自信だけはありました(笑)」
 
独立して間もないタイミングで、西さんのお父さんにステージ4の癌が発覚。お母さんと一緒に介助できるようにと、2014年には戸隠の実家で仕事をするようになります。しかしながら進行を食い止めることはできず、その年の8月に帰らぬ人となりました。
ひとりっ子だった西さんは、運転免許がなく車で移動できない高齢のお母さんをサポートしようと、向かいにあった倉庫をリノベーション。2015年に事務所が完成しました。
 
薬師堂の奥にあるのが、リノベーションした事務所
▲薬師堂の奥にあるのが、リノベーションした事務所
 
ところがその年の暮れから、お母さんの認知症が発症してしまいます。最初は物忘れが多くなったと感じる程度でしたが、しばらくして市役所で認知症相談会があることを知り参加。初期の段階で専門家からアドバイスやサポートをもらうことができ、月に一度の通院やデイサービスなどのサポートを受けるように。
当時は朝5時に起きて朝食を作り、9時ごろ迎えに来るデイサービスの見送りをしてから事務所に出社。デイサービスから帰ってくる15時には家に戻って夕飯の準備。仕事に集中できるのは9時から15時だけで、休まる時間はありませんでした。
2020年になると症状はさらに進んでいき、真冬の朝4時から徘徊に付き合って集落を歩いたり、タンスの引き出しに排泄後のオムツを隠したりするようにもなりました。認知症だとわかっていてもついあたってしまうことがもどかしく、ストレスがたまる日々が続きました。お互いのために良い選択をしようと熟考し、2021年にお母さんはグループホームに入所。現在は月に一度のペースでホームに立ち寄っています。
 
「20代で結婚と離婚を経験、30代はデザインに揺さぶられながら40代半ばまで親の介護が続きました。ようやく自分に集中できる時間が生まれたことで、あらためてグラフィックデザインを考える良い機会を得られたのだと思います」
 
「20代で結婚と離婚を経験、30代はデザインに揺さぶられながら40代半ばまで親の介護が続きました。ようやく自分に集中できる時間が生まれたことで、あらためてグラフィックデザインを考える良い機会を得られたのだと思います」
 
そのきっかけ の一つが長野ADCでした。
年1回開かれる審査会で多くの作品を見るうちにデザインの未熟さに気がつき、このままでは良くないと思うようになります。そして2021年から、ありとあらゆるデザイン関連本を購入。より多くの良いデザインを見ることから始め、本で紹介されていた自主練をいくつも実践してみたり、出版社主催のデザイン講座をいくつも受講してみたり、さまざまな展示会などを見に行く機会を増やすように。さらには武蔵野美術大学の通信学部に入学し、デザインの基礎を勉強したりもしました(現在は休学中)。
 
「誰もが人生の節目節目で『勉強する努力』が必要なのだとしたら、怠ってきた僕にとって、それを取り返す時期だと思ってます」
 
多様な仕事に関わる西さんですが、近年反響を呼んだのが「戸隠そば祭り」のポスターです。最初のころはデザインのものさしが足りないばかりに、良いデザインを提供できなかったと言います。
勉強してきた成果が出始めたのは、2021年のとき。それまでとは方向性を大きく変え、オリジナルのタイポグラフィでポスターを制作。ヒントにしのは、歌舞伎のビラ(今でいうチラシ)に用いられる江戸文字の一種、勘亭流文字でした。
 
「いろいろなデザインの表現を知るうちに、戸隠そば祭りにはどんなデザインが良いのだろうと考えるように。そのなかでたどり着いた答えが、潔いタイポグラフィでの表現でした」
 
タイポグラフィの力強さに、思わず見入ってしまう
▲タイポグラフィの力強さに、思わず見入ってしまう
 
たとえば文字の線を太く隙間を少なくするのは“客席を大入りに”、文字に丸みを持たせるのは“興行の無事円満を図る”、ハネを内側に収めるのは“お客をハネ入れる”といった意味があります。このコンセプトのもとオリジナルのタイポグラフィを用いたポスターは戸隠に抱く印象と見事にはまり、全員一致で採用されたのです。
さらにはこの年の長野ADC審査会で長野ADC賞、2022年の東京タイプディレクターズクラブ、第68回ニューヨークタイプディレクターズクラブでも入選を果たしました。
 
「長年グラフィックデザインに携わっていると思われがちですが、自分の中では45歳を過ぎてようやくスタートラインに立てた、やっと自分のやりたいことが見つかったという気持ちです。だからこそいろんな審査会に出品して自分を試してみたいですし、そこで評価されるのは純粋にうれしく励みになっています。今はグラフィックデザインの面白さにも気付き、それを追求し、文字やイラストを主体とした自分らしい表現を始めるようにもなりました。失敗しても恥をかいても良いのでどんどん行動してたくさん学んで色々な経験を積みたい。入社2、3年目の新人のような感覚ですね」
 
いまが一番楽しいと話す西さん。最初から高い志があったわけではないけれど、その時々に出会った人や与えられた仕事を愚直に取り組んできたその積み重ねがしっかりとした土台になっているようです。
 
心がけていることを壁に貼っている西さん。内容とは裏腹に力の抜けた愛らしい文字が印象的
▲心がけていることを壁に貼っている西さん。内容とは裏腹に力の抜けた愛らしい文字が印象的
 
「今の事務所は静かで集中できる良い環境かもしれないけれど、デザイナーとして人としてこれからも成長していくためには、ここだけに留まらず、もっと広い視野を持つ必要があると思ってます。そのために将来的にはまちなかにも場をつくりたいですね」
 
それが実現するのは、もうしばらく先のこと。グラフィックデザインを起点にどのような場が生まれるのか、具現化する日を楽しみに待ちましょう。
 

(2023/07/19掲載)

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会える場所 西 達也
長野県長野市戸隠豊岡2071
電話
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