No.101
前田一郎さんのガラス
ナガラボ編集部のマイフェイバリット
手にしたときの安心感、飲み口のよさ。日常を彩る生活のためのガラス
文・写真 石井 妙子
門前の夏の風物詩「前田ガラス店」
ガラス作家、前田一郎さんのグラスには麦茶がよく似合います。少し厚みのあるガラスが、麦茶の琥珀色をいい具合いに見せるからでしょうか。フリーハンドで描いたような自然な形が手のひらになじみ、厚めの縁は口あたりもよくて、少しだけ風味が増すような気もします。
▲野菜や果物の色がきれいに映える前田さんのガラス。光を受けて表情を変えるのも魅惑的
15年ほど前から門前の店「ナノグラフィカ」で毎夏開かれる前田さんの作品展「前田ガラス店」は、界隈の夏の風物詩。今年も7月の初めに開かれました。期間中は前田さん本人が店番を務め、訪れたお客さんに大きなヤカンから冷たい麦茶を振る舞います。注ぐグラスは、もちろん前田さんの作品。時折窓から風が吹いてくる畳の部屋で麦茶をいただいていると、前田さんの家に招かれているような気分になります。
▲和室に並ぶガラス作品を見ていると、「ビールが合いそう」「サラダを盛りつけてみたい」など使い方のイメージが膨らんでくる(写真提供:ナノグラフィカ)
長野市で作家活動を始めて30年以上。初期の頃から30回以上出店し続けている「クラフトフェアまつもと」をはじめ県内外で展示やイベント出店を行い、各地のショップで販売されるなど、前田さんのガラスは全国で人気を集めています。インスタグラムで「前田一郎」と検索すれば、全国の投稿が500件以上ヒットするほど。
皿や花器などさまざまな作品がありますが、なんと言っても代表的なのは個性豊かなグラス群です。麦茶や水に合う小ぶりなサイズ、缶ビール1本がちょうどおさまる背の高いもの、ワインが似合う脚付きなど、どれも日常で使いやすいものばかり。光をほどよくにじませる厚みのあるガラスと自由なフォルムは、一目で「前田さんのグラスだ」と分かります。
30年作り続ける、使いやすい定番品
基本的に新作はあまり作らず、定番品を作り続けている前田さん。ロングセラーの中には、長年の愛称で呼んでいるものもあります。例えばシンプルな「水のコップ」。仲のいい家具屋さんに「お客さんにワインを出すためのグラスを作ってほしい」と頼まれて作ったグラスが元になっていて、「もう一回り小さいのも作ってよ」というリクエストに応えた小ぶりなサイズもあります。水やワインはもちろんお茶にビールにと、オールマイティーに活躍しそうです。
▲シンプルな形で家族の数だけ揃えたくなる「水のコップ」
「気のないコップ」というちょっと気になる名前も。普段使いにちょうどいいサイズ感のこちらは、制作を始めたばかりの頃に作った形を原型にしているそう。
「吹きガラスでコップを作る時は熱したガラスが柔らかいうちに口の部分を広げるんだけど、普通のコップのようにまっすぐ作るのは実は難しいんです。何も考えずに初めてコップを作ると、こうやって上に広がった形になる。気合いを入れて作ってないから、『気のないコップ』です」
▲ゆるやかなくびれが手のひらになじむ「気のないコップ」
「気のないコップ」はお客さんに初めて買ってもらった思い出の作品でもあります。荒削りだからとずっと封印していましたが最近になって解禁し、再び作り始めました。
「歳をとってから『頑張ってない作品もいいかな』と思うようになって。未発表音源みたいなものかな。昔も今も、作りたいものはあまり変わってないんです。でも何年もやっていると技術がついてくるから、『前田くん、うまくなっちゃったね』と言われたりしてね(笑) 確かに昔作ったものを見返すと、下手なんだけど今はもうできないなあと思う」
今年の春には、珍しく新作が加わりました。名前は見た目そのまま、「フタのあるコップ」。フタ部分が皿にもなるから、そばつゆと薬味入れ、エスプレッソとアイスクリーム、紅茶とティーバッグ……と使い道をさまざまに想像できるのがおもしろいところ。最初からこの形をイメージしたのではなく、手を動かしている時の思いつきが形になったのだそう。
「小皿を作っているときにふと、『この縁を折り曲げたらコップのフタになるかも』と思って。皿がそのままフタになるなんてバカげてるね、と思いながら、コロナ渦でいろんなイベントがなくなって暇だったので作ってみたんですよ。意外とお客さんにも好評です。退屈はアイデアの源ってことですかね(笑)」
▲フタが皿代わりにもなる「フタのあるコップ」。「皿におつまみを乗せてコップでお酒を飲むとか、いいね」と前田さん
金魚鉢の工場で覚えた製法がルーツに
「前田さんのコップは割れないから使いやすい」
そんな言葉をよく耳にします。さすがにガラスなので割れないことはありませんが、確かに一般的にイメージされるガラスよりもぽってりと厚みがあるから、使っていて安心感があります。
「若い頃は薄いガラスを作ろうとした時期もあったんだけど、最初に覚えた方法がどうしても厚めにできるものだったから。今は、意識して薄くなりすぎないようにしています。飲み口もいいし、洗うときも怖くないでしょう。僕も人の家のガラスの器は、怖くて使えない(笑)」
前田さんがガラス製作を始めたのは30歳の時のこと。家から自転車で通える距離にあったガラス工場に就職し、一から技術を身につけました。金魚鉢と尿瓶を生産していたその工場で得た吹きガラスの技術が、現在のベースになっています。
▲ガラス作家の前田一郎さん。長野市内に工房を構え、活動を始めて30年以上たつ
「ガラス工場っていうのは分業制なんです。いろんな工程を経験するために工場を渡り歩く職人もいるぐらい。僕の場合は工場のおじいさんがおもしろがっていろいろ教えてくれて、最初に溶けたガラスを竿に巻き取る一番難しい工程をいきなり経験させてもらえた。なかなかできなくて苦労してる時も笑って見ててくれてね、ありがたかったですよ。
当時から自分で器を作ってみたかったから、終業後に工房に残って作らせてもらっていました。ガラスは、吹く工程ができるようになれば作れるんです。そんなことをしていたけど、1年ぐらいで吹けるようになったら工場を辞めちゃって。若かったからね。当時住んでいた家の庭に自分で小さい炉を作って、作品を作り始めました」
型できっちり作ることはしない
製作は一度に3kgほどのガラスの塊を炉に入れてドロドロに溶かし、冷えないうちに集中して一気に作ります。最近では材料のガラスは購入することが主流ですが、昔は酒屋さんに足を運んで譲ってもらった空き瓶などと一緒に溶かして材料にしていたそう。
「グレーっぽいお酢の瓶が好きでしたね。今は廃瓶を集めづらくなったから、時々自分で飲んだお酒やラムネの瓶を使うぐらいかな」
そうして生み出されるブルーやコバルトの微妙に揺らぐ色、ぷつぷつとした気泡、そして何より同じ型でも一つひとつ微妙に形が違うから、「これだ!」と感じるお気に入りの一点を選ぶ過程も前田さんのガラスの魅力でもあります。
「きっちりした型で作っていないからでき上がりにばらつきはあるけど、『これはかっこ悪いから売れない』と選別することは基本的にしません。普通は金型を作って同じものを作るんですが、僕の場合きっちりした金型で作ると飽きちゃうから、作らないんです。それでもサイズは統一しなくちゃいけないので、そこらへんにある水道管やガス管の切れ端を型みたいに使って、まわりにガラスを吹き込んで作っています。大きさがちょうどいいからね」
水道管を型に使っているとは意外。そんなふうにおおらかに生み出される前田さんのガラスは、根底に「暮らしの道具」としての使いやすさがあります。いつもの水がなんだかおいしく、見慣れた光もきれいに見せてくれる。日常を少しだけ豊かにしてくれる存在です。
<info>
ウェブサイト https://isagoya.net
◎長野市近郊で前田さんの作品を購入できるお店
おやきの店 ほり川 http://oyakinohorikawa.com
hanayori(栄心堂 安茂里店内) https://www.facebook.com/hanayori2020-109770853935736/