No.059
秦
孝之さん
戸隠山岳救助隊リーダー
3つの顔を持つ凄腕の戸隠人
文・写真 Yuuki Niitsu
「戸隠は自分の庭。庭で困っている人がいたら、助けるのは当然でしょ。戸隠が好きだからやっているだけ」
こう話すのは信州登山案内人、戸隠山岳救助隊リーダー、レストラン「小鳥の森」の経営者と、3つの顔を持つ秦孝之さんです。
普段レストランを経営している秦さんは、遭難者が出るとすぐさま厨房からヘルメットを被り現場へ向かいます。
「さっきまでエプロン姿でフライパンを握っていた人が、急にへルメットを被ってザイルを持って出てきたらお客さんは何してるんだろう?って思うかもね(笑)」
遭難はいつ起こるかわからないため、救助の任務を最優先できる自営業の人でないと救助隊は務まらないと秦さんは言います。そのためレストランの営業中でも救助に向かうことがあるそうです。
「土日に登山客が多いから、皮肉にもお店が忙しい時に、要請が来るんだよね。お客さんには迷惑かけちゃうけど」
秦さんが救助に行くときは、奥様が一人でお店を賄うため作れるメニューも減るといいます。それでも、秦さんは人命最優先の救助活動を貫き通します。
数多く経験した救助の中には編集部・新津の想像を絶するような現場もありました。
「登山客3人に雷が横から直撃したことがあってね。一番重症だった人は、肩から雷が入って、足から出ていっていたね。脈が不整脈で泡を吹いていてあの時は駄目かと思ったね」
鬼気迫る過酷な現場の最前線で救助に当たった秦さんが当時を振り返ります。
これからの時期は雷に要注意。夏は15時以降に雷が発生しやすくなるため、それまでには下山できるようにすること、さらに山では雷が地形上、横から落ちるというアドバイスもいただきました。
これがお店での普段の秦さん。遭難者が出るとすぐさま冒頭のような装備になる
戸隠を誰よりも愛する秦さんのご出身は東京都八王子。男子校時代にスキーをしに来たのが戸隠との出会いでした。その後、大学に入り毎年冬には戸隠を訪れます。
「当時、戸隠のスキー場には居候制度っていうのがあって、バイト代は出ないけど衣食住には困らなくてスキーも思う存分できたんですよ」
転機があったのは、次の年に紹介された別の宿のご主人との出会いだったそうです。
「ここの宿には10年くらいお世話になったんだけど、ここの主人が登山ガイドや救助隊もやっていたんですよ。でも、うちの父は私にサラリーマンになって欲しかったらしく、ずっとスキー場で働いていることに不満を持っていたんですよ」
不満の矛先は宿の主人に向けられ、ついに父が”秦さん奪還計画”を遂行。お互いの話し合いの場が設けられることになります。
「でもそんな時に限って偶然にも救助要請が来てしまって、ご主人が山に行ってしまったんですよ」
話し合いの場にいないことに、秦さんの父がしびれを切らして険悪なムードが漂っていたといいます。時間だけが無駄に過ぎていき、東京に戻ることを覚悟し始めたその矢先に、ご主人が扉を開けました。
「救助後にビショビショになった泥まみれの姿で扉を開けて、開口一番に『今日は、はるばる東京から来ていただいたのに、遅れて申し訳ございませんでした。ただ今、着替えてすぐに戻りますので!』と言って頭を下げたんです」
この真っすぐな姿に感動した秦さんの父は、この人なら息子を任せられると確信し『息子をよろしくお願いします』と逆に頭を下げたそうです。
息子を取り返しに来たはずの父が、息子を預けることになったというこの逆転劇を一生忘れないと秦さんは振り返ります。
地元の登山仲間が気軽に立ち寄り情報交換などをしている
「ここの主人との出会いがあったからこそ、今の私がいますね」
今年で16年目を迎えるレストラン小鳥の森には、戸隠を訪れるお客さんが立ち寄り、コーヒーを飲みながら、おすすめの場所などを尋ねてくるといます。
「ヨーロッパには、登山の途中にワインが飲めたり食事が出来たりするレストランがあるんだけど、それが理想かな」
「それに戸隠には入口に案内所が一つしかないでしょ。上の方にはない。だから、この店が食事もできる戸隠の情報発信地になって欲しい」
秦さんの七つ道具。この他に遭難者を現場で落ち着かせるためお店で入れた温かいコーヒーを持っていくという
そう話し、戸隠に全てを捧げる秦さん。戸隠が長野市になるときにも、「戸隠」の地名だけは残してもらうように中心になって働きかけたといいます。
この戸隠人秦さんが嬉しかったこと、それはあの百戦練磨の登山家、三浦雄一郎さんとの出会いだそうです。
「撮影で長野市に来ていたらしく、縁あってうちの店に来てくれたんですよ。そしたら、うちの店に入った瞬間、『君、ヨーロッパ行ったことあるでしょ。あと、戸隠出身じゃないね』って、ズバリ当てられたんですよ。この店は本当の山好きの店だって。あの三浦雄一郎さんにこんな言葉もらって、自分のやっていたことが間違っていなかったと思った瞬間でした」
戸隠神社奥社へ向かう途中にレストラン小鳥の森はある。まさに自然を独り占めできる
取材をしながらも小説に出来るなと密かな企みをしていた編集部・新津ですが、既に先人が。
小鳥の森に7年間通っていた小説家の吉村達也さんが、秦さんを主人公に推理小説「ウイニングボール 上下巻」を2011年に出版されました。
プロの物書きも虜にさせるほどの人生の秦さん。
仕事の他にも趣味のスキーやMTB、釣り、写真と多才かつバイタリティーあふれる生き方は、都会から訪れたサラリーマンが必ず口にする「私がやりたいことを秦さんは全部やっているね」という言葉が全てを物語っています。
今年から7月の第4日曜日に「信州山の日」が制定されました。これから本格的な登山シーズンを迎え家族連れやカップルなどで賑わいをみせますが、秦さんのように命を懸けて戸隠を守っている方がいるということを我々は忘れてはならないでしょう。
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会える場所 | レストラン小鳥の森 〒381-4101 長野県長野市戸隠3510-86 電話 026-254-3083 ホームページ http://www.kotorinomori.jp/ Blog |
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