No.80
成満堂のとんかつ
ナガラボ編集部のマイフェイバリット
揚げ物嫌いにこそ、この感動を。毎週思い出してしまう格別な味
文・写真 ナカノヒトミ
「とんかつってこんなにおいしいんだ!」
揚げ物=重い・胃もたれをするという概念を、簡単にひっくり返す驚きのとんかつに出会ってしまいました。
ずっしりとお皿を覆う存在感は、見るからにヘビー?いやいや、衣はあくまでお肉を引き立たせるアクセント。一口さくりと噛みしめてみれば、あまりの柔らかさとあっさりとした口当たりにびっくりするはず。
「僕は元々とんかつが嫌いで。だけど、どうしてか今はとんかつを揚げるようになったんですよね」
とおどけた笑顔で答えるのは、長野市岩石町のとんかつ屋『成満堂』の店主・髙野啓司さん。
『成満堂』は、喫茶『大福屋』内にランチタイムの3時間だけ開店するお店。平日でもランチタイムとなると近所から遠方から多くの人がとんかつを求めて足を運びます。
とんかつ嫌いの髙野さんがなぜとんかつ屋を?どうしてこんなにおいしいの?きっと何度も足を運びたくなるとんかつ屋『成満堂』のストーリーを紐解いていきます。
「寝かせること」がおいしいとんかつには不可欠な要素
こんなにおいしいとんかつの秘密、もしかしたら教えてくれないかもな。とドキドキしながら尋ねてみると、「肉料理は寝かせることが大切なんだよ」と一言。寝かせるとは一体どういうことなんだろう。
「お肉がおいしく食べられる温度は65度から70度。一般的に適温とされる170度の熱い油でじっくり揚げたら、お肉のおいしさは損なわれてしまうんです。だからある程度のところでいったん油から上げて、じんわり内部に熱を通すために寝かせることが重要。揚がったとんかつは一旦保温してから切り分けます。このひと手間がとてもとても大切。とんかつの出来上がりを左右します」
▲じんわり火が通ったお肉はSPF豚。くさみがなく、脂もさっぱりしているのに、うまみはギュッと詰まっています。
成満堂では、肉の部位を自分で選べます。初めて来店した人がびっくりする、うれしいサービス。
「揚げるお肉は、実際に見ていただいてサーロインとリブロースから選んでいただけます。サーロインとリブロースでは厚みは同じでも面積が全然違うんですよ。開店当初は、私の独断と偏見で部位を選んでいましたが、細身の女性の方がぺろりと大きなサーロインを召し上がっているのを見て、『これはお客様に選んでもらった方がいいかもな』と思ったんです(笑)」
▲スライスする厚みは22ミリ。その心は「通常のとんかつ屋は20ミリのところが多いので。少しばかりの見栄です!」と髙野さん。肉の厚みにも表れるホスピタリティに、食べる前からワクワクしてしまうのだ。
銀座で出会ったあの味、あのお店が始まりだった
元々の知り合いだった大福屋の店主・望月ひとみさんの誘いを受け、髙野さんがとんかつ屋としての道を歩み始めたのは1年前のことです。
「僕は元々、新卒から鉄道会社で働いていたんです。勤務地は長野と東京を行ったり来たり。そのまま働いていれば何不自由なく暮らせる環境ではありましたが、ふと50歳を目前にして『私はこのまま60歳まで人の命を預かる仕事に従事していくのだろうか』と思う瞬間があって。自分の人生を、もっと自由に生きてもいいかもしれないと思い立ち、会社を早期退職することにしました」
髙野さんの退職を祝おうと、友人が予約してくれたのは友人の馴染みのとんかつ屋。定休日のところ、電話をして開けてもらったお店には髙野さんと友人、店主の三人だけ。ささやかな退職祝いの宴が始まると、髙野さんは今後の人生について打ち明けました。
「退職するとはいえ、その後のことはほとんど考えてなくて。決めていたことといえば、お遍路巡りをすることだけ。さあこれからどうやって生計を立てていこうかと友人に漏らした時に、『とんかつが揚げられたらどこでだって食っていけるよ』と店の奥から店主の声が聞こえて。酔っていたこともあって、『どれ、それならやってみようかな』とその場でとんかつを揚げさせてもらうことになったんです(笑)」
髙野さんは見よう見まねでとんかつに衣をまとわせ、店主がそれを揚げる。
一口食べてみたら「あれ、とんかつってこんなにおいしかったんだ」とびっくりしたのだとか。
「私、実は胃がもたれるからとんかつは得意ではなかったんですよ。だけどその時食べたとんかつがとてもおいしかった。あまりのおいしさに感動していたら、店主が『それ、髙野さんが自分でつくったんだよ』って(笑)。その時に『あ、とんかつなら揚げられるかもしれない』と思えたんです」
会社を辞めた高野さんは、とんかつ屋を始める前にお遍路の旅に出ました。
「お遍路は弘法大師の修行した道を辿る旅のこと。かつて会社員時代に耳にした、弘法大師の“人生は穢れを落とす旅”という言葉がなんだか頭に残っていまして。退職して新たな人生のスタートを気持ちよく切れるよう、お遍路にでかけたのです」
1年かけ四国八十八ヶ所、高野山、京都の東寺へのお参りを無魔成満(むまじょうまん=滞りなく法要、修行を終えたこと)し、『成満堂(じょうまんどう)』の店主としての道を歩み始めました。
「よい1日をお過ごしください」
今日もお腹いっぱいとんかつを食べたはず。だけど足取り軽やかにお店を出られるのは、高野さんのおまじないのような言葉のおかげかもしれません。