No.63
『珈琲館 珈香』の店頭看板
ナガラボ地元編集塾参加者のフェイバリット・ナガノ
文・写真 大日方薫、高島浩
かつてはきらびやかなネオン街だった西鶴賀通りの一角に、『珈琲館 珈香』という喫茶店があります。
入口の看板が伝えるのは、メニューやお知らせではなくマスターの日々のつぶやき。
その一言一言は常にほがらかで、あるときはくすりと笑わせてくれたり、あるときは「え?」と心をざわつかせたり、とにかく私のこころをつかんで離しません。
書き手であるマスターはいったいどんな人で、どんな経緯ではじまったのか。継続しているモチベーションはどこからきているのか。看板の裏側が知りたくて、お店を訪ねてみました。
左から、「心の充電はmax! あの笑顔にかなうもの無し! あとは体力!なんせ見せかけだけだから さ~ていつでも来なさい猛暑」「年からすると お見せ出来ませんが思ったよりおマッチョにけっこうしびれます(笑) それにくらべて残念な頭皮! こちらはいつでも見られます」「優しい、温厚etc 全て私のためにある言葉ですが、1日の中である時間帯だけ、私の中に別の誰かが顔を出す 夏の終わりに目のあたりにして見て下さい」
色気を出さずに
実は私、看板ファンでありながらお店をほとんど利用したことがありませんでした。
コーヒーが飲めないので機会を逸していたのですが、取材をお願いするにあたって「夏限定で30年ぶりにクリームソーダが復活」という情報にも背中を押されて扉を開けました。
いらっしゃい!
店内で迎えてくれたのは、マスターの歓迎のまなざしと元気な挨拶でした。そしてクリームソーダを頼むと、にやりと笑ってこう言われたのです。
赤と緑、どっち?
(え!? 某カップ麺?)
不意をつかれて思わず笑ってしまった私に、マスターはまたにやりと笑って応じます。
赤はグレナデン(ざくろの果汁)緑はメロン。どっちでも~。
その受け答えは、まるで昔からの知り合いだったかのような気負いのなさ。
「『珈琲館』と屋号についているくらいだから、珈琲を頼まないと失礼じゃないだろうか」などと緊張して入店したものの、いつの間にか楽しくなった私は結局その日は取材を忘れてお店を満喫してしまったのでした。
こちらがそのマスター
後日。あらためて取材を申し込むと、ちょっと驚き「看板を記事にするの?」と不思議そうな顔をしたマスター。でも「取材といっても上手く書けないと載らないんですけど……」と口ごもる私に
そうか、じゃ、まぁ色気を出さずにがんばろう!
と笑いながらうなずいてくれたのでした。
ちょうど夏の終わりでしたがクリームソーダの販売期間も延長に
そうしたいから、する
取材日当日。
撮影で一旦午前中にお店を訪ねると、「おお、いらっしゃい!」と迎えてくれたマスターは伝票整理などをしていました。
『珈琲館 珈香』が誕生したのは今から39年前。
高校を卒業したばかりのマスターとお母様とでスタートし、今ではお店のすべてをマスターが切り盛りしています。
常連さんいわく「同じメニューになったことがない」という「特製日替わりランチ」も、ご飯、お味噌汁から、揚げ物、煮物に至るまで、一品一品すべてマスターの手作り。
特製日替わりランチ。どれも美味しかったですが、お味噌汁は絶品でした
休日は日曜・祝祭日。朝7時半から夜7時まで、毎日お店に立ちながらこれを作り続けているのはすごいことのように感じるのですが、それを伝えてもマスターは「お客さんにせっかく食べてもらうなら、自分が食べたいもの、食べておいしかったものを口にしてほしい。自分がしたいからそうしているだけ」と、いたって平常心なご様子。
もうちょっと自慢してくれるかと思った私は拍子抜けでしたが、でもなんとなく感じたのは、マスターはほめられるとちょっと照れ屋になるのかもしれません。
最後は笑ってもらいたい
ランチは混むので、インタビューはあらためて夕方に。
あいかわらずていねいに「いらっしゃい!」と迎えてくれたマスターは、「一生懸命思い出したんだけどさぁ」と、看板の思い出話をしてくれました。
はじめたのは25年前くらいだったかな。
前からやってみたいと思ってたんだけど、たまたま使われていない看板を常連さんから譲ってもらって。
あれを見て「店は汚いけど、ここでやってる人間は間違いない」って入ってきてくれて、今ではコーヒー券を買ってくれてる人もいる。
でも、はじめた理由だとか深い意味だとかはまったくないよ。あれは完全に俺の自己満足(笑)。
お客さんをあれで呼んでやろうみたいな気持ちもまったくないしね。
-でも毎回ちゃんとオチをつけてますよね。自己満足にしてはかなり労力がかかってますが。
それは「逃げ」! だって炎上したら怖いじゃん(笑)。
朝読んで不機嫌になって仕事にいかれたら困るべ? やっぱり最後には笑ってもらわないと。
それに書けるときはいくらでも書けるけど、書けないときはほんとに書けないよ?
-そういうときは?
大きく「広告募集中」って。「詳細はお気軽にお尋ねください」って書く。
そんな会話をしていると、ぽつりぽつりと常連さんが入ってきました。
マスターは「いらっしゃい!」「おお、お疲れ様! いらっしゃい!」とひとりひとりていねいに迎え入れ、コーヒーを淹れたり、それぞれのお客さんの会話に応じたり、ひらりひらりと店内を行き来しています。その空間の雰囲気と居心地の良さといったら……。
またしても私は取材を忘れ、常連さんとマスターにまじって談笑してしまったのでした。
言葉で“伝える”ということ
看板に関係ないことで談笑しすぎて「これで本当に記事書けるか?」と心配されつつ、最後に聞いてみたいことがありました。
それは、マスターが一見さん・常連さん分け隔てなく、しっかりと伝えている「いらっしゃい」と「ありがとう」の言葉について。その響きは、「握手しているのでは!?」と思えるほど、一人一人に対する気持ちがこもっています。39年間お店を続けてきて、これほどまでに言葉の鮮度を保っているのはめずらしいことのような気がします。
おもしろいこと言うな(笑)。でもそりゃそうだよ。
どういうわけだかうちを選んで入ってきてくれてるんだから。
それにずっと想っていても、言葉じゃないと伝わらない部分ってあるだろ?
だから俺は、それをお客さんに“ちゃんと”言葉にして伝えなきゃと思ってる。毎回ね。
ただ、そのときに「また来てくださいね」っていう気持ちはあるけど、それとこれとは話は別よ?
そんな気持ちを込めたらいやらしいからさ。ま、やらしさは他のところで出てるしな(笑)。
……って、さっきから看板の話まったくしてないけど、おまえ本当に大丈夫か?
そういってマスターは、あらためて看板の話を思い出そうとしてくれたり、お店が昔受けた取材原稿を参考資料として探してきてくれたりしました。その姿はまるで、夏休みの宿題が遅々として進まないのにのんきに遊んでいる子どもを気づかう親のよう。
マスターは優しいなぁ。そう思いながら、私は別の意味でどうやって書こうか悩みはじめていました。39年経っても変わらないお客さんへの感謝の気持ちも、サービス精神にあふれた会話も、すべて手作りのランチセットも、書ききれなかったさまざまなエピソードも、すべて、あの看板につながっているような気がしてならなかったからです。
たぶん、それを言ったら「だからそんな深い意味はないんだってば(笑)」と言われそうな気はするのですが、みなさんはどう思いますか?
とりあえず私は、このお店の看板がもっと好きになりました。
そしてクリームソーダは通年メニューとなりました
<INFO>
珈琲館 珈香(COKA)
住所:長野市大字鶴賀西鶴賀町1549-8
電話:026-235-2932
定休日:日曜・祝祭日
営業時間:7:30~19:00(残業なし)