No.102
パン屋「TENTH BEAR ~like speak easy~」
ナガラボ編集部のマイ・フェイバリット
禁酒法ならぬ「禁パン法」が発令された1920年代NYの隠れパン屋
文・写真 波多腰 遥
「speak easy(スピークイージー)」という言葉をご存知でしょうか。1920年にアメリカで施行された、アルコールの製造や販売、輸送を全面的に禁止する「禁酒法」。この法律へ反発するように増加した、もぐりの酒場のことを指します。
表向きは床屋や薬局として営業をしながら、お店の奥にある秘密の空間で、隠れるようにお酒を提供していたそうです。なんだかドキドキしてしまう実際にあったお話ですが、そんな時代をモチーフにしたお店が、現代の長野市にもあるんです。
新聞記者のクマが営む非合法のパン屋
長野市徳間の車通りの多い道路を一本脇に入ると、黄色を基調としたかわいらしい建物が目に入ります。壁面には大きく「CINEMA」の文字がありますが、映画館ではなく、実はパン屋なのです。
お店の名前は「TENTH BEAR(テンスベア)」。一歩足を踏み入れれば、1920年代のニューヨークに着想を得た、一頭のクマを主人公とする架空の物語へと引き込まれます。
ときは1900年初頭、アメリカのニューヨーク。戦争から帰ったクマのAndyは、真実を民衆に伝えたいとの想いから、友人から譲り受けた古いシアターを拠点に、新聞社「THE Andy Times」を設立しました。1919年になると、パンの製造・販売を禁止する「禁パン法」が成立。「美味しいものは食べねばならぬ」を信条とするAndyは、新聞社の奥のスペースにひっそりとパン屋を開きます。
店内入ってすぐの空間はイートインスペース。一般的なパン屋さんとは異なり、陳列されたパンやレジカウンターは見当たりません。代わりに視界に入るのは、タイプライターや白黒写真といった装飾品の数々。映画館のチケット売り場を改装した新聞社へお邪魔したかと錯覚してしまいます。
イートインスペースの右端にあるゲートを潜った先には、シアタールームを彷彿とさせる真っ暗闇な室内に、ずらっと並べられた焼きたてのパン。その香ばしい匂いと、鼓膜を揺らすリズミカルなラグタイム・ミュージック。五感を刺激する非日常の光景に、自然と胸が踊ります。そこには確かに、Andyが営む隠れパン屋がありました。
▲お昼どきには子供連れのご家族やお年寄りなど、ご近所の方々を中心にたくさんのお客さんが来店します。店内での足取りは、どこか軽やかに映ります
およそ80種類のパンが並ぶTENTH BEARの一押しメニューは、20世紀初頭にアメリカ合衆国で流行した「ポップオーバー」。型に入れた卵とバター、小麦粉を高温のオーブンで一気に焼き上げます。シュー皮のようなサクッとした食感と、中の生地のもっちりとした食感が同時に楽しめます。
▲パンとは違い発酵が要らないのが特徴。プレーン味のほか、チーズやチョコチップを合わせたオリジナルメニューも
家族で練り込んだ架空の世界観を店内外で表現
1997年にオープンしたTENTH BEAR。店主の原啓人さんは奥さんとともにお店を経営してきましたが、東京の調理専門学校へ進学していた息子さんの帰郷をきっかけに、店舗の改装を考えるようになりました。そして2018年に現在の内外装へと生まれ変わります。
▲TENTH BEARの名前の由来は、お店の所在地である「徳間(→とくま→十熊)」から。店名からも遊び心が窺えます
「イートインスペースを設けて焼きたてのパンを召し上がっていただきたいと以前から思っていました。お店も古くなってきたし、息子も一緒にやりたいと言ってくれたので、これを機に改装することにしたのですが、せっかくなら変わったものにしたかったんです」
パン屋だけど、パン屋らしくない。そんなお店にしたいと思った原さんがヒントを得たのが、お父さんの遺品でした。実家の土蔵を整理していると、新聞記者であったお父さんがアメリカやイギリスへ取材に行った際に撮影した写真や、現地で購入したアンティーク品などが見つかりました。
▲Andyの新聞記者という設定も、原さんのお父さんのご職業から
▲Andyのデスクに並ぶ書類や飾られた白黒写真の一部は、お父さんの残したもの。発見したときには「埋もれさせちゃいけない」と思ったそうです
古い時代のアメリカでも、特に1920年代の音楽や雰囲気に惹かれていたという原さん。奥さんや息子さんも当時の世界観を気に入ったそうで、次第にコンセプトが具体化していきます。
「お客様を迎える自分たちが興味を持てるものでないとお店はひとつになりませんが、そこは家族ということで、趣味嗜好も似ていたので話が早かったです。確か禁酒法ってあったよね、じゃあうちは禁パン法にしようよ、みたいな感じで、どんどんアイデアが膨らんでいきました」
▲店内に飾られている「禁パン法」の条文。実際に施行されていた禁酒法の条文をオマージュしています
▲このお店の主人公であるクマのAndy。息子さんが思い浮かべたイメージを、過去に絵本を描いていた奥様が描き起こしたそうですす
家族会議の末に出来上がった緻密なストーリーを空間に落とし込むべく、建築士と相談を重ね、構想からおよそ2年半をかけて生まれ変わりました。一部の施工は、テーマパークのアトラクションなども手掛ける県外の業者にも関わってもらったそうです。
お客様がワクワクしてくれるお店へ
こうして2018年にリニューアルオープンしたTENTH BEAR。昔からお店を知る近所の人たちや久しぶりに来店された方からは、様々な反応があるそうです。
「店外の看板も下ろしたら『移転したんだね』って言われたり、店内に入った方からは『パンがないじゃん』とか『博物館みたい』とか、いろいろな感想をいただきました(笑)」
「like speak easy(もぐりの酒場のような)」を標榜するパン屋だけに、お客様のリアクションもパン屋らしくないものが多いようですが、こうした声も楽しんで受け止めているようです。原さんはこう続けます。
「お客様がワクワクしてもらえる場所にしたかったんです。パンを食べて美味しいと感じてもらうだけじゃなくて、買いに行く時間も楽しんでほしいと思っていました。予想外だと感じてもらえたことも含めて、改装した甲斐がありました」
「お店でも楽しんでもらえるように、オープン当初から変わったことをしてきました。厨房からお客様のワクワクした表情や喜んでくれている様子が見えると、また明日も頑張ろう、という気持ちになれるんです。20年以上続けてこれたのも、そのおかげですね」
法律に背いて密かに営まれる非合法のパン屋は、訪れる人も迎え入れる人も自然と笑顔になれる空間でした。店内奥の販売スペースに入った瞬間、身体に走る高揚感をぜひ体験してみてください。
<info>
TENTH BEAR ~like speak easy~
長野県長野市大字徳間3173
電話 026-244-5422
Instagram https://www.instagram.com/tenthbear/
営業時間 9:00〜18:00(火曜日のみ10:00〜16:00)
定休日 水曜日