No.67
『街並み』
ナガラボ編集部のマイフェイバリット
長野の記憶を綴る小冊子
文・写真 小林 隆史
『街並み』が物語る、この街の記憶。写真家・清水隆史氏のロングインタビュー
ある時私は、長野に帰郷してきた人のこんなひと言を耳にしました。「長野へ帰ってくる大きなきっかけは、『街並み』でした」と……。
写真とイラストで、長野の風景を記録し続けている小冊子『街並み』。みなさんは観たことがありますか?
2005年から2015年にかけて全44号までが発行され、「〇〇町」、「仕事場めぐり」、「銭湯」、「映画館」など、毎号1つのテーマで長野を切り取ってきた小冊子『街並み』。編集を担う『ナノグラフィカ』(長野市西之門)は、古民家再生プロジェクトや、善光寺での手づくり雑貨市の企画運営などに携わり、善光寺門前界隈のにぎわいの草分け的存在とも言える編集室です。
『街並み』が描き出すのは、ある日の街角、何気ない人々の日常、今はもうない建物。時を経て変わった街、変わらぬ場所。かつてこの街に暮らしていた人、今はもう旅立ってしまった人……。そんな記憶を映す一枚一枚の写真が、過去と現在を巡り、長野の軌跡を物語ります。
いわば、長野の記憶を綴った貴重なアーカイヴとも言える『街並み』。しかし実は、その制作秘話や、長野にフォーカスを当て続けてきた真意、数十年に渡る経緯(いきさつ)は、これまでにWEBメディアであまり語られてきませんでした。
そこで今回は、『ナノグラフィカ』の発起人であり、『街並み』の写真を撮り続けてきた清水隆史さんへのロングインタビューを敢行。『街並み』を通じて、清水さんがどのように長野を捉えてきたのかを紐解いてみることにしました。
『街並み』が映し出した日常のワンシーンと、清水さんの言葉で語られる長野の過去と現在。そこには、私たちの毎日を見つめ直すヒントがあるのかもしれません。
< 清水隆史さん プロフィール>写真家。現在は『OGRE YOU ASSHOLE』のベーシストとして、全国各地のフェスやライブハウスに出演。高校卒業後、信州大学教育学部進学を機に、奈良県から移住。在学中に、ライブ、パフォーマンス、演劇などが交わるスペース『ネオンホール』を設立(1992年)。全国各地のバンドやアーティストが独自のネットワークで集うように。2003年には、編集室『ナノグラフィカ』を立ち上げ、長野市善光寺門前界隈の古民家再生プロジェクトや、蚤の市、地域交流の場を企画。その活動のようすは『門前暮らしのすすめ』として、継続的に発信されている
『街並み』ができるまで ー 写真家・清水隆史氏が見てきた長野 ー
信州大学への入学がきっかけで、出身地の奈良から長野に移住した清水さんが、『街並み』をつくるに至った経緯とは……。話は、カテゴライズし得ない数多の表現が交差する空間『ネオンホール』(長野市権堂)を立ち上げた20代の頃に遡ります。
ーーー今回は、『街並み』をつくるに至った経緯と、長野に暮らしてきた年月を、清水さんがどう捉えているのかを記録したいと思いまして。宜しくお願いします。
はい、宜しくお願いします。どこから話したらいいだろう(笑)。『街並み』をつくるよりもずっと前に僕は、学生時代から『ネオンホール』をはじめていて……。
当時を振り返ると、僕は『ネオンホール』の存在意味みたいなものをしきりに考えていたんです。「同時代の日本や世界と、どう絡んでいるのか?」、「長野のシーンの中で、何をしようとしているのか?」と。その頃って、ニューヨークや東京の音楽シーンを語るものはあったけれど、長野の音楽シーンを語るものはなかったんです。端的に言えば、シーンを語るテキストがなかった。
歴史を紐解くと、テキストがなければ、文化はカタチを見せないじゃないですか。文化は、文字で記録されて、伝播するわけで。だから、長野に文化をつくりたければ、長野のシーンを自分たちで論じるしかないのでは?と思うようになっていったんです。
だけどその頃は、長野で出会った同世代の人たちは、長野のことに、ほとんど見向きもしていなかったんです。大半の人たちは、「東京行こうぜ」って感じでしたからね。僕らが『ネオンホール』をやりはじめても、たいがい「ふ〜ん」って薄いリアクションでした。今みたいに、「地元を元気にしたい」、「シャッター商店街を再生したい」なんて雰囲気は、皆無でしたから。
そこで勢い余った僕は、ラジオ局やテレビ局に、自分で書いた企画書を持ち込んで行った、なんてこともありました。すると、『FMぜんこうじ』やNHK長野放送局で、長野ユースカルチャーの紹介番組に出されてもらえるようになっていきました。
でもよくよく考えると、ラジオって、リアルタイムのメディアだから、テキストとして参照できないじゃんって気がついて(笑)。それで『FMぜんこうじ』は、90年代後半から5,6年ほどやらせてもらったんですけど、それと並行して、『NaO』(まちなみカントリープレス発行の月刊誌)で『長野シーン・ウォッチ』という連載企画をやらせてもらうことになったんです。
『長野シーン・ウォッチ』では、長野で起きている色々なカルチャーを追いかけ続けました。アンダーグラウンドなHIPHOPのイベントに通ったこともありましたし、刺青だらけの人たちの中に潜り込むなんてこともありましたね(笑)。ジャンルを問わず、あちこち取材して回っていました。
写真がNGなところは、絵で描くとか、テキストで書き込むとか、とにかく欲張りに長野のシーンを全部知りたいと思って、記録し続けていました。その頃には、長野のユースカルチャーを物語る人や活動を、ひと通り知り尽くした気になっていたくらいに(笑)。そうやって取材を重ねていく中で僕は、だんだんと、記録でもあり、作品でもある写真にのめり込んでいきました。
ーーー学生時代に『ネオンホール』を立ち上げ、その後は、ラジオや雑誌で長野のシーンを語り、最終的に行き着いたのが写真、というのはなぜだったと思いますか?
なぜ?と聞かれると、「なんでギター弾くの?」って聞かれたミュージシャンが、答えに困るのと同じようなことになってしまうなあ(笑)。
写真はもともと、高校生の頃からやっていて、一時は『ネオンホール』を暗室+住居+ホールとして使っていたこともあるくらい、ずっと好きでした。それが30代になったら、「写真を通じて、自分の作品をつくりたい」と思いはじめたわけです。作品としてかっこいい写真を撮りたいなあって。
自分がここに住んでいるなら、この街の写真を撮ることが自然なんじゃないかな。単純にそう思った
ーーー『街並み』がフォーカスしているのは、人物のポートレートや長野の街そのもの。清水さんは、これまでの長野をどんな風に見つめてきたのでしょうか?
『ネオンホール』を始めた頃と今を比べると、当時の長野の人は、文化的に消費者でしかなかったんですよね。首都圏で生産された文化を、地方が消費するみたいな構図で。カルチャーをつくっているのは、テレビや雑誌などのメディアを通じて発信できる中央で、地方から新しい文化が生まれるなんて有り得ない、そんなムードを感じていました。
だけど、それを受け入れるのがイヤだったんです。だからそれに抗うように、バンドを組んでツアーに出たり、関西や沖縄のバンドを『ネオンホール』に呼んだりしていたんです。今となっては当たり前のことかもしれないけれど、東京とは無関係に地方同士が新しいことをはじめたら、何かが変わるんじゃないか?って思っていました。とにかく、中央圏のカルチャーを消費するだけの存在でありたくないと思っていたんです。
そもそも僕が思っていたのは、僕が生まれるよりも前、例えば、戦前や江戸時代の日本って、それぞれの土地に、それぞれの文化があるって、普通のことだったんじゃないの?ということでした。
昔は、テレビや雑誌のように、中央から流れてくる情報インフラがなかったわけですよね?だから、沖縄では沖縄民謡が沖縄の人に愛されていたり、津軽には津軽の曲があったりしたと思うんです。つまり、大量生産・大量消費の時代よりも前の日本では、その土地に行かないと、その土地の文化に触れられなかったわけですよね、おそらく。
だから長野に住む僕らは、「国道19号とか信越線の歌でもつくって、バンドで唄ったほうが面白いんじゃないの?」なんてことを、友だちとしきりに話していたんです。「甲州街道は秋なのさ」とか「走り出せ中央線」なんて、カラオケで歌わないで、もっと自分の街を楽しもうよって思っていたわけです。今思えば、大きなお世話だよって、自分にツッコミを入れたくなりますけど(笑)。
それでその頃、何を撮るべきなのかを考えたら、自分が一番よく知っている、自分の住む街を撮るべきなんじゃないの?って思えてきて。わざわざ、海外に出たりしないで、長野を撮ればいい。そうすれば、自分にしか撮れない写真になるはず、と。
そう思って長野を見つめ直すと、住んでいて感じる土地なりのよさがあって……。例えば、何の変哲もない路地。これが、ある季節のある時間になると、めちゃくちゃ格好よく見える瞬間があったり、美しく見える視点に気づかされたり。そういうことを撮ればいいんだと思ったんですよね。
そして、『ネオンホール』は次の世代に託して、長野を伝えていくために、編集や写真の仕事をメインにしていこうと決めて、2003年に仲間と『ナノグラフィカ』を立ち上げることにしたんです。
ーーー表現の場『ネオンホール』から編集室『ナノグラフィカ』へ。清水さんとしては、どんな主軸を見据えていたんですか?
もう単純に楽しみながら、「自分がこの街に暮らしているから、ここをテーマに伝えていく。それが当たり前だよね?」という感覚でした。
思い返せば、色々な連載記事や編集みたいなことをやってきたけれど、あくまでもベースになっているのは、友だちとの会話でしたね。普段から「あそこのアレ、変だよね?」、「あの廃屋は格好いい」なんて言い合っていることがすべてだったんです。「地方を編集する」とかではなく、ただ自分たちのセンスで、本気で面白がってるだけ。そんな感じでしたね。
角地に立つ、ツタに覆われた古い建物。ここの2階が『ネオンホール』。清水さんが住みながら、ライブハウスとしてオープンさせたのは、1992年のこと。以来、小劇場であり、ライブハウスでもあるこの場所には、定義しようのないカルチャーが集まるようになった。清水さん曰く、「僕は芝居も、音楽も、写真も、とにかく何でも好きだったから、それが全部一緒になってもいい場所にしたかった」
この街に暮らし、レンズの奥に見つめてきて年輪
ーーー『街並み』で写真を撮る時、清水さんは何を考えているのですか?
いや、もう、ただ自分の感覚で、本当に思ったまま撮るだけですね。地方で何かをやると、すぐに「地方ならではの視点」とか「地域の記録」みたいな話になるけれど、自分としては、普遍的なものを見せようとは思ってなくて、作品として面白ければそれがいいと思っているんです。
だけど、こうして時間が経って振り返ると、「年輪とともに刻まれるもの」というか「新しいものと古いものの混在」が記録されていて、面白いものになったのかなあと思います。記録写真にしようって意図は全くなかったんですけど、結果的には、今はもう見れない景色を写真に残せたわけですから、よかったなあと思っています。
ーーー『ナノグラフィカ』を立ち上げて、『街並み』をつくり始めた2005年と今。この街にどんな変化を感じてきましたか?
善光寺門前の界隈は、この10年で随分と変わりました。とは言え、地域に限らず、時代がもつ雰囲気も変わってきましたからね。「24時間働けますか?」みたいな、“マッチョな社会”ではなく、「量より質、数字より内容」になってきていますもんね。その上、日本全体に言えると思うんですけど、中央よりも地方を指向する人が増えたのも、大きな変化だと思います。
そんな中で、UターンやIターンで移住してきた人が、善光寺界隈を中心に、作家活動の拠点にしたり、新しいお店をはじめたりしたことで、どんどん入り組んできたというか、文化的に豊かな街に変わってきたと思います。長野が好きで楽しんでいる人がすごく増えましたよね。
それぞれの働き方やスタイルで仕事をする人がいて、にぎやかになりましたよね。そういう時代ごとのプレイヤーが現れて、小さな偶然が積み重なって、今の善光寺界隈の様子はできてきたんじゃないかなあ。そんな風に思います。
『ナノグラフィカ』を立ち上げる前は、よく京都にライブしに行ってたんですが、京都って謎めいた人たちが、いっぱい闊歩しているんですよ。「アートやバンド、演劇の香りがプンプンするけど、この人は一体どうやって暮らしているんだろう……?」みたいな人とか、「絶対学生じゃないでしょ!?」 みたいな人とかね。
当時は、そんな空気が羨ましかった。そういう多様な生き方や働き方をしている人がいるということは、つまり、多様性のある面白い街なわけで。いつの間にか長野も、そんな風景になってきたのかもしれないですね。多様な生き方や働き方が生まれたことで、隙間が生まれて、文化が生まれる土壌になってきたというか。
代表の増澤珠美さんと清水さんら数名で運営している、編集室『ナノグラフィカ』。(詳しくは、「ナガラボ人物図鑑」増澤珠美さんの記事を参照)喫茶室、ギャラリーとしても営業。催しの企画会議や、ご近所さんの拠り所として、いつもやわらかい雰囲気に包まれている。善光寺門前界隈での暮らしを発信するプロジェクト『門前暮らしのすすめ』では、界隈の古民家を巡る「門前空き家見学会」や「門前山カフェ」などを企画。まさに、長野市における古民家暮らしの原点
ーーーこの数十年で、時代ごとに活躍するプレイヤーや、街を盛り上げていくキーマンを見てきたと思うのですが、清水さんご自身としては、街との関わりで大切にしてきたことは何かありますか?
そういう意味で言えば、実は、信州大学教育学部で学んできたことって活きているなあと思うこともあるんです。教育実習で「誰をどうするために、どんなプロセスを通じて、何をする?」みたいなことを、ひたすら指導案で書かされてきたわけですけど、この考え方って、どんな活動においても基本の心得みたいなものでした。
『ネオンホール』では、「演者のどの部分を引き出そうか?」とか、「あのミュージシャンとこのバンドが対バンしたら、面白いはず」とか考えて、ブッキングしていましたからね。
『ナノグラフィカ』もそうで。「この街を生涯学習の題材と捉えて、何を学び、何ができるだろうか?」とか「 どんな人間関係やものごとを結びつけたらいいか?」みたいなことを、しきりに考えてきましたね。実は、30歳になる頃まで、高校の先生になりたいと思っていましたから。でも、『ネオンホール』があったから、もう無理でしたけどね(笑)。
今はもう、「中央」と「地方」のボーダーラインは薄れてきているのかなあと思います
あとは、最近よく考えていることがあって……。
「地域再生」や「地方創生」という言葉がしきりに囁かれていますが、若い人、特に学生が「自分の生まれた街を元気にしたい」なんて言うのを聞くと、どこかに違和感を感じてしまいます。僕が20代の頃は、「同世代の人たちは東京のことばかり気にして自分の街をないがしろにしている!」なんて思っていたくせに、自分勝手なもんですが(笑)。
でも、20 代は自分勝手に、自分を磨くことに集中して、興味があれば東京でもヨーロッパでもアジアでも、どこへでも行けばいいと思うんですよね。 そこで自分を追求すればいい。自分を高めることだけを考えていたとしても、いずれは落ち着きたいと思ったり、どこかに腰を据えなきゃって時期を迎えたりするはずだから。
その時になって、故郷や面白そうな地と出会ったら、獲得したスキルで、その土地に入っていったらいいと思うんです。生まれ故郷がピンチだから何とかしたい! なんて思っても、普通の学生なんて気持ちばかりで、経験も能力も圧倒的に足りないんだから、まずはしっかり自分と向き合った方が、最終的には良い結果になると思います。考えてみたら、若い人に限らず、いつだって、誰にだって言えることですけど。
今の自分は、『街並み』、『ナノグラフィカ』、『門前暮らしのすすめ』とは別の流れの縁があって、2011 年あたりから、仕事の大きな部分を、メジャーフィールドでの音楽活動が占めるようになりました(※OGRE YOU ASSHOLEのベーシストとして活動)。そこには、地方も中央もなく、研ぎ澄まして創った良い作品を、なるべく広くに届けることだけを考えてます。そんな日常の中で、長野に暮らして、今までとは違う視野をもって自分の感覚がアップデートされています。これからは、その感覚がどんな景色を捉えるのか、僕自身楽しみになっているんです。
だから、これまでのことを振り返って思うのは、今はもう「中央」と「地方」というボーダーラインが薄れてきているということです。これだけ情報インフラが整うと、どこにいても、誰でも、文化の生産者になれますから。
つまり、中央も地方も関係なくて、面白いことを誰でも簡単に発信できる時代になっていると思うんです。ただし、地域文化が盛り上がるポイントを考えると、「そこに住む人が面白がれるか」、「他にはない独自の視点をもてるか」が重要になってくると思うんです。
そんな考え方をしてみると、僕はたまたま、「こういうアプローチなら、この街は面白いよね?」みたいなことをやってみただけなんだと思います。それが『門前暮らしのすすめ』であり、『ナノグラフィカ』であって。でもきっと、その感覚は間違ってなかったんだと思います。
清水さんの言葉で語られる長野の過去と現在。そんな片鱗を垣間見るような気持ちで、『街並み』を手に取ってみてはいかがでしょうか?
< INFO >
『街並み』
バックナンバーは『長野・門前暮らしのすすめ』HPより
http://monzen-nagano.net/books/
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『ナノグラフィカ』
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