真田一族のルーツは、戦国時代にさかのぼります。
真田家で最初に名前の見える幸綱(幸隆)は、小県・佐久地方の豪族・滋野一族の海野氏の流れをくむといわれており、信濃の攻略を進める武田氏の「武田二十四将」として活躍しました。
幸綱(幸隆)の三男・昌幸は真田家を継ぎ、昌幸の長男・信之、次男・信繁(幸村)らと共に激動の戦国時代なか、戦国領主の地位を確立していきました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、昌幸、信繁(幸村)は西軍・豊臣方に、信之は東軍・徳川方につき、昌幸父子は敵味方となって戦うことに。
関ヶ原の戦いは、徳川方の勝利に終わり、昌幸・信繁は高野山に幽閉されます。昌幸はここで没し、信繁は豊臣方に見方して大坂城に入り、冬の陣・夏の陣において戦い、討ち死にしました。
徳川家康は、信之に父の所領を与え、上田城主となりますが、元和8年(1622)、松代へ移封を命じられます。こうして真田氏による松代藩の治世が始まりました。
信之をはじめ歴代の藩主は、町づくりや産業振興に力を尽くす一方、質素倹約を励行し、文武を奨励しました。廃藩・廃城となる明治維新まで10代・約250年間にわたり松代藩を治め風情と落ち着きのある城下町・松代の礎を築きました。