真田信之(さなだのぶゆき) 永禄 9 年(1566)~万治元年(1658) 武士・松代藩初代藩主
真田昌幸の長男として永禄 9 年(1566)に生まれた。父と 共に上信両国に出陣し、真田の武功を誇った。慶長 5 年(1600) の関ヶ原の戦いにおいて、父昌幸、弟信繁(幸村)と袂を分けて、 徳川方につき、家名を残すことに成功した。以後、慶長 5 年に 上田城主、元和 8 年(1622)に松代城主となり、真田十万石 の基礎を築いた。 墓は松代町長国寺と隠居所であった松代町柴大鋒寺にあり、 松代藩の藩祖として、松代町西条白鳥神社に武靖大明神として 祀られている。
塚田大峯(つかだたいほう) 延享 2 年(1745) ~天保 3 年(1832) 医師・儒学者
善光寺桜小路(現長野市桜枝町)の医者で、室鳩巣の門人 でもあった塚田善助(旭嶺)の子。母千賀子は松代藩士矢島 氏の娘。名は虎、字は叔貔、通称は多門。はじめ父について 学び、16 歳で江戸に出て苦学し、漢学塾を開く。寛政2年(1790)の寛政異学の禁のとき、これに反対し、市川鶴鳴・ 山本北山・亀田鵬斎・泉豊洲とともに五鬼と称される。文化 8年(1811)、尾張藩儒、のち藩校明倫堂の督学となり、88 歳で没するまで教壇に立った。長兄の明は松代藩士の家を継 ぎ、次兄道有は医者として一茶の『父の終焉日記』にも名が 見える。末弟の慈延は、比叡山の僧となり、隠居後京都に住んで歌人として名をなし、澄 月、小沢蘆庵、伴蒿蹊とともに、平安和歌四天王と称された
茂呂何丸(もろなにまる) 宝暦 11 年(1761) ~天保 8 年(1837) 俳人・俳学者
吉田村北本町(現長野市吉田3丁目)に小沢治郎右衛門の 長男として生まれ、青年時代は書画を愛し、江戸・京都・大 坂を往来し、古書画の売買を業としていた。寛政 4 年(1792) に俳諧の仲間入りをし、享和 2 年(1802)に重病を患い、剃 髪して「何丸」と名を改める。文政 2 年 (1819) 江戸に出て蔵 前の札差中村抱義の知遇を受け、俳諧宗匠として立つ。松尾 芭蕉の研究で知られ、芭蕉七部集注釈事業に取り組み、『七部 集大鏡』や『芭蕉翁句解参考』を著している。文政 7 年(1824)、 京都二条家から「俳諧奉行職御代官」に任じられている。名は一元、通称治郎右衛門、別 号に古連、漁村、月院社がある。
峯村白斎(みねむらはくさい) 安永元年(1772)~嘉永 4 年(1851) 俳人
水内郡石村(現長野市豊野町石)の豪農峯村藤兵衛の長男として生まれ、幼名は清蔵、 後に仙蔵といった。早くから俳諧に親しみ、善光寺町の戸谷猿左に学び、茂呂何丸、小林 一茶らと交遊した。また石村長秀院の発明和尚に漢学を学び、南画も能くした。「俳句手帳」・「花の俤」などの発句集があり、俳文集として『四景楼之辞』などがある。別号は、古扇、 古仙、古僊、寒岳園。後に白斎と称した。寺子屋「寒岳園」を営み、これを庵号とした。
鎌原桐山(かんばらとうざん) 安永 3 年(1774)~嘉永 5 年(1852) 朱子学者・故実家
松代藩の家老・鎌原重義の三男として生まれた。名は重賢、 のち8代真田幸貫から一字を賜り貫忠、号を子恕と改める。 桐山は、岡野石城、佐藤一斎に儒学を学び、長国寺住職・千 丈実巌に詩文を学んだ。射術、馬術、卜伝流槍術、長沼流兵 学、小笠原流礼法、点茶など諸芸を極めた。門人に山寺常山、 佐久間象山、長谷川昭道らがあった。詩作、文章もたしなみ、
その蔵書は 1 万冊にのぼったとされる。著作に『朝陽館漫筆』
150 巻余。『隠居放言』14 巻、『大東鈴家智嚢』などがある。 没後門人等によって松代・東条に碑が建てられ、碑文は佐藤一斎が記している。
真田幸貫(さなだゆきつら) 寛政 3 年(1791)~嘉永 5 年(1852) 武士・松代藩8代藩主
信濃守。号は遂翁、一誠斎。陸奥白河藩主松平定信の二男で、 真田幸専の養子となり、文政 6 年(1823)家督を継ぎ、10 万 石を領する。藩政改革を実施し、特に富国強兵策を採用し、藩士佐久間象山を抜擢して、洋学や西洋砲術の研究、洋式大砲、 鉄砲の鋳造、殖産興業などを推進した。天保 12 年(1841)、 幕府老中に登用され、海防掛として、諸侯に海岸防御のために大砲を鋳造することなどを命じる。弘化 4 年(1847)の善光寺大地震では、幕府より 1 万両を拝借した。嘉永 5 年(1852)、 藩校文武学校の建築準備に着手後、62 歳で没した。
寺島宗伴(てらしまそうはん) 寛政 6 年(1794)~明治 17 年(1884) 和算家
上水内郡鬼無里村(現長野市鬼無里)に生まれ、はじめ宮城流和算の叔父寺島半右衛門陳玄について学び、文化 13 年 (1816)に免状を得る。その後松代藩士町田源左衛門正記について最上流和算を学び、文政 10 年(1827)に免状を取得。 鬼無里を中心に信濃を遊歴し、門弟衆には信濃から越後にか けて 1,100 人を越える門弟の名が記されている。和算以外にも家相、規矩術、そろばん、折形、挿花も教授した。鬼無里松巌寺に奉納算額が残されている。『算法続浅問答』、『算法隔日記全二十巻』などがある。通称は数右衛門、号は北明。
岩下貞融(いわしたさだあき) 享和元年(1801)~慶応 3 年(1867) 国学者
善光寺大門町(現長野市大門町)の素封家岩下貞諒の長男として生まれる。文政 2 年 (1819)、名古屋へ行き、塚田大峯に師事する。また京都で頼山陽に詩文を、江戸で清水 浜臣に国学を修め、和漢の学に通じ、詩歌書画を能くした。善光寺大勧進別当に仕える寺 侍で、和歌・詩文・国学関係の出版物のほか善光寺についての初の研究書『善光寺史略』、『善 光寺別当伝略』などを著した。雅楽を奏する楽人でもあった。近世善光寺町を代表する学者で、本姓は滋野、通称は多門、号は桜園、菅山。名は「さだみち」とも言う。
青木雪卿(あおきせっけい) 文化元年(1804)~明治 34 年(1901) 武士・絵師
現在の長野市松代町岩野に生まれる。通称八重八、号を雪卿とした。川中島の更級雄斎 に絵を学んだとされる。松代城の障壁画を描き、多くの肖像画を描いたと伝えられる。 弘化 4 年(1847)に起こった善光寺地震後の被災地を、8代藩主真田幸貫の巡行どお りに描いた『感応公丁未震災後封内巡視図』は、被災地を写実的に描いた彼の代表作であり、災害史の重要な記録である。パノラマ写真のような眺望図や、実景を尊重する極めて 写実的な表現は、写真の影響を想像させるような、新しい表現が見られる。
山寺常山(やまでらじょうざん) 文化 4 年(1807)~明治 11 年(1878) 武士・儒学者
通称は源太夫、号を常山といった。松代藩 160 石取りの武士の家 に生まれ、藩の監察、普請奉行を経て、江戸で兵学、経学などを学 び、佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めた。8 代藩主真田幸貫が老 中となると、藩士に兵学を講じ、9 代幸教の代には側役頭取を兼ねた。 また、寺社奉行や郡奉行を勤めた。明治維新後は、明治政府の招き を固辞して松代に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育にあ たった。屋敷地は山寺常山邸として松代町竹山町に現存し、庭園が 登録記念物(名勝地)に登録されている。
佐久間象山(さくまぞうざん) 文化 8 年(1811)~元治元年(1864) 武士・儒学者・兵学者
松代藩の下士佐久間家の長男として、埴科郡松代町浦町(現長 野市松代町松代)に生まれる。通称は修理、号を象山・子明。儒 学を学び、朱子学を信奉する。天保4年(1833)、江戸に出て佐 藤一斎に学び、その頃渡辺崋山、坪井信道、藤田東湖らと交わ り、親交を深めた。アヘン戦争(天保 10 年(1839)~天保 13 年(1842))の衝撃を受けて対外的危機感に目覚め、天保 13 年
(1842)、8 代藩主真田幸貫が老中海防掛となると、海外の事情 を積極的に学んだ。弘化元年(1844)、黒川良安と蘭学・漢学の 交換教授を行い、その後オランダ語の百科事典などによって新しい知識を身につけ、様々 な科学実験を行った。天保 13 年(1842)、江川英龍に入門して西洋砲術を学び、嘉永 3 年(1850)、江戸深川で西洋砲術の塾を開いた。弟子に、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰ら がいる。安政元年(1854)、吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居を命 じられる。元治元年(1864)、幕府の命を受け、海陸御備向手付御雇として京都に上るが、 7 月 11 日三条木屋町で尊攘派によって暗殺される。享年 54 歳。
長谷川昭道(はせがわあきみち) 文化 12 年(1815)~明治 30 年(1897) 武士・皇道学者
通称を深美といい、号を戸隠舎といった。藩の竹内錫命・ 鎌原桐山・山寺常山らに漢学や兵学を学び、江戸で佐藤一斎 に師事した。郡奉行兼勝手元締役などを務めた。一貫して尊 皇攘夷を唱え、佐久間象山らの派閥と対立した。慶応元年(1865)京都留守居役となり、明治維新にあたっては、政府 より教道局御用掛として大学創立の調査に当たり、太政官権大史に任ぜられた。明治 3 年(1870)、農民一揆の松代午札 騒動が起こると、旧藩主真田幸民の強い要請で官を辞し、松代に帰って騒動の収拾に当たった。大正 4 年(1915)正五 位を贈られた。維新期に藩論を勤皇に統一し、著書に『皇国述義』、『神皇正統記譜略』な どがあり、真田公園に顕彰碑が建っている。
北村喜代松(きたむらきよまつ) 天保元年(1830)~明治 39 年(1906) 彫工
頚城郡市振村(現新潟県糸魚川市市振)の宮大工建部家に生まれ、上水内郡長野村(現 長野市)の北村家に入婿した。喜代松は、早くから鬼無里に来て、屋台の彫刻などを手が けた。結婚後 15 年間余り上水内郡長野町(旧長野市)に住み、47 歳の明治9年(1876) に故郷の市振村へ移る。喜代松の手による作品は、長野市内では鬼無里の屋台や神楽彫刻、 戸隠神社宝光社の拝殿彫刻、市外では飯山市、野沢温泉村などの本堂彫刻、新潟、富山、群馬の本殿・拝殿など彫刻 30 余りが残されている。
大里忠一郎(おおさとちゅういちろう) 天保 6 年(1835)~明治 31 年(1898) 製糸家
埴科郡西条村(現長野市松代町西条)の旧家相沢家に生まれ、 松代藩士大里家の養子となる。士族授産のため製糸業に着目 し、官営富岡製糸場を模範として明治7年(1874)に日本初 の民間蒸気製糸工場(西条村製糸場、後の六工社)を有志と 共に設立した。資金の乏しい中、研究・改良を重ねて蒸気汽 罐や陶器の繰糸鍋を発明し、上質の生糸を生産して製糸業の 発展に努めた。西条村製糸場は民間蒸気製糸の工場として全 国の模範となった。富岡製糸場にて製糸技術を学んだ和田英 は、西条村製糸場の事業開始とともに富岡製糸場を退場し、指導者となる。
明治 11 年(1878)には長野県御用掛を命じられ、県の設立した製糸場の主務を努め、 六十三国立銀行を創設して支配人兼副頭取となった。明治 21 年(1888)には、松代町 に蚕糸業伝習所を新設し、学理的な研究と一切の実務的技術を習得させて、後進の育成に 努めた。明治 23 年(1890)六工社の生糸が、パリで開かれた万国博覧会で金牌を受賞 した。その後、全国各地で講演を行い、日本の製糸業の優秀性を訴え、その振興を図った。 また、六工社の生糸のアメリカへの直輸出の道を開くなど、製糸家として活躍した。
和田英(わだえい) 安政 4 年(1857)~昭和 4 年(1929) 工女
英は、安政 4 年(1857)に、横田数馬・亀代の二女として 松代町代官町に生まれた。明治 6 年(1873)、松代地方の工女を引き連れ、16 歳で上州官営富岡製糸場に入場。フランス式 繰糸技術を伝習。一等工女となって帰郷。明治 17 年(1884) に、松代西条村の日本最初の民間蒸気製糸場、西条村製糸場(後 の六工社)の教婦としてその創業に尽力した。後年、明治 41 年(1908)から大正2年(1913)にかけて、富岡製糸場の生 活や六工社創立当時を追想し、『富岡日記』を執筆。当時の新 しい女性の生き方が映し出された貴重な記録となっている。明治 44 年(1911)には『吾が母の躾』を著した。 生家である横田家は、敷地と建物のほぼ全てが現存し、松代藩中級武士の生活の様子を 偲ぶことができるとして、重要文化財に指定され、一般公開されている。
藤原善九郎(ふじわらぜんくろう) 明治 3 年(1870)~大正 12 年(1923) 煙火師
杜煙火の盛んな上水内郡安茂里村(現長野市安茂里)に生まれ る。同村平柴に信濃煙火合資会社を設立し、24 歳のときに北信 地区花火師組合を発足させ、大正 4 年(1915)には長野県煙火 組合を創設して組合長になる。この組合の事業として『煙火之研 究』を発行し、長野県花火師の仲間の中心、指導者として活躍し た。この組合には 73 名の会員が参加したが煙火の需要が多くな く、農業との兼業をする半農半工が大多数であった。花火技術の 改良に取り組み、初めて打ち上げ花火に色をつけ、また初めて尺 玉の打ち上げに成功した。明治 43 年(1910)3月には、名古屋 で開催された第 10 回関西府県連合共進会に 2 尺玉を出品した。
長岡助治郎(ながおかすけじろう) 明治 4 年(1871)~昭和 14 年(1939) 教員・郷土史家
明治 25 年(1892)松代尋常小学校専科教員(音楽科)となり、 以来教員として 50 年間勤務した。この間、文武学校の改築に は、文武両道の精神を受け継ぐ松代の象徴であり、貴重な文 化財であることを主張し、改築話を中止させた。松代雅楽は、 8代藩主幸貫の時代から武家の式楽として松代城下でも始め られ、明治維新後中断していたものを、宮島春松らと協力し て復活した。 松代大門踊りは、江戸時代の祇園祭の際、藩や藩主の弥栄 を祈って、松代城大御門前で踊られていたが、廃藩後絶えて いたものを、開府 300 年祭(大正 10 年(1921))の挙行に際し、 助治郎の指導のもと肴町の青年等により復活した。
川村驥山(かわむらきざん) 明治 15 年(1882)~昭和 44 年(1969) 書家
静岡県袋井市に漢学者東江の長男として生まれる。幼い頃か ら書と漢詩を父川村東江や太田竹城、岡田良一郎に学び、11 歳 のころには、明治天皇の銀婚式に「孝経」と「出師表」を韻書 して献上し、天覧の栄を賜る。幼年より全国各地の素封家の間 を筆一本を持って歩く、文人墨客的な生活を送る書家であった。
昭和 20 年(1945)の東京大空襲により、戦禍を避けて篠ノ 井に疎開することとなり、居宅を新築するなどして信州に永住
する決心を固める。昭和 37 年(1962)には支援者により常設 展示を目的とする「財団法人驥山館」が開館する。 飄々とした無欲達観の人で筆に生涯を託し、純朴な楷書と次々と豹変する狂草で、漂泊の魂を表現して世俗を超越した明治から昭和期の日本書道界の第一人者として活躍し た。酒仙としても知られ、書道界で初めて日本芸術院賞を受賞する(昭和 26 年(1951))。 本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。
三沢勝衛(みさわかつえ) 明治 18 年(1885)~昭和 12 年(1937) 教育者・地理学者
更級郡三水村(現長野市信更町三水)に生まれる。検定で教員資格を取り、大正 9 年 (1920)長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高校)教諭を勤める。野外調査を中心と した独自の地理教育を行う。太陽黒点の観測をはじめとする天文学の研究に打ち込み、総 合的で独創的な風土論を展開した。県下の小中学校で教え、教え子からは古畑正秋(天文 学)、藤森栄一(考古学)、矢沢大二(地理学)、諏訪彰(火山学)、新田次郎(作家)など 多くの文化人、学者、研究者を輩出している。また信州の冬の厳寒と乾燥を利点視し、凍 み豆腐、寒天作りなどの産業振興を勧めた。著書に『風土産業』、『郷土地理の観方』、『新地理教育論』などがある。
青木儀作(あおきぎさく) 明治 22 年(1889)~昭和 40 年(1965) 煙火師
上水内郡安茂里村差出(現長野市安茂里差出)に三男一女の 末子として生まれる。早くから村社久保寺煙火行事に参加して 花火と関わり、地元には藤原善九郎経営の煙火工場もあり、花火に関心を寄せ研究を重ねた。大正 5 年(1916)には煙火製 造業に専念する花火師となる。
芯入り花火を研究し、抜芯技法を創始完成して、昭和 3 年(1928)に多重芯割物(八重芯菊花火)の製法を完成させ、各 地で開かれる花火競進会では優勝の成績を重ねて、「紅屋青木」 の盛名は全国にとどろくに至った。美しい色を出す火薬の粒を 星と呼んでいるが、色の違った薬を二重、三重に掛け重ねる掛け星は日本独特の変色星で、 青木儀作が工夫完成させた。日本の花火を最高芸術品にまで昇華させた功労者であったた め、昭和 34 年(1959)には黄綬褒賞を受章し、これに伴い昭和 36 年(1961)には日 本煙火芸術協会が誕生し、青木が会長に就任した。儀作の技術は、子息多門に継承され、 さらに華麗なものとなる。
大平喜間多(おおひらきまた) 明治 22 年(1889)~昭和 34 年(1959) 郷土史家
埴科郡東寺尾村(現長野市松代町東寺尾)に生まれる。遊民と号した。10 代後半から文芸活動をはじめ、「勧業新聞」、「中信時報」の記者をし、昭和 12 年(1937)から昭和 30 年代まで松代町会議員を務めた。自らの職業を「著述業」とし、 実地踏査を踏まえて郷土史の研究を続けた。大正 7 年(1918) から 10 年間、松代町史編纂主任に専念し、『松代町史』を完 成させた。大室古墳群の 168 号墳は、大平が調査したため、 大平塚とも呼ばれている。昭和 4 年(1929)に埴科郷土研究会、 昭和 8 年(1933)には北信郷土叢書刊行会設立の中心メンバー として活動。著書に『松代風土記』、『真田幸貫』、『佐久間象山』、『真田幸弘と恩田木工』などがある。松代町東条出身の中村柊花と親交を持ち、詩や和歌 なども詠んだ。