長野市は、北アルプスに源を発する犀川の扇状地と千曲川の沖積地によって形成された肥沃な長野盆地に位置し、平安の昔から「三国一の霊場」善光寺の門前町として日本全国に親しまれてきた。
長野の地は、推古10年-西暦602年(「善光寺縁起」)、善光寺如来が信州に下向してから駅伝路線が通じ、奈良・平安・鎌倉・室町と時代を経て大集落を形成し、善光寺の門前町としてその体裁を整え、戦国時代には上杉・武田がその所領を争う地となった。
武田氏の滅亡後、森領、上杉領、豊臣領と続き、慶長6年長野村、箱清水村は寺領として所与され善光寺領となり、他は松平、徳川、真田等の地領として変転し明治2年6月版籍奉還となった。この間、善光寺の門前町は、同時に北国街道の宿場町や市場町としても栄え、町の基礎が築かれた。
明治4年廃藩置県により、長野県の管轄となり、県庁が置かれた。明治9年8月筑摩県が廃され南信地域が長野県に合併されることになり長野町は長野県の県都として発足することになり、地方行政の中心的役割を果たし、地方の政治都市の色彩を濃くした。
明治22年4月町村制施行により4町1か村が合併して新たに長野町となり、明治30年市制施行により、県内で初めての市として長野市が誕生し、中央の出先機関や経済・文化面にわたる中心的機関が集中され、また、信越本線・中央線が開通するなど、政治・経済・文化及び交通の要衝として急速に発展した。
その後、大正12年7月隣接の1町3か村を編入合併した。さらに昭和29年4月隣接の10か村を編入合併し、市域は拡大され、道路整備、信越・中央両線の輸送強化による産業の発展と相まって近代的な大都市としての基礎が築かれた。
昭和41年10月、長野市、篠ノ井市、松代町、若穂町、川中島町、更北村、七二会村及び信更村の2市3町3か村の大合併により、面積404平方キロメートル、人口27万人の都市となった。
こうした都市の拡大・発展の中で平成8年9月に人口は36万人を超え、平成9年4月1日には明治30年の市制施行以来100周年を迎えた。100周年記念事業の最たるものとして第18回オリンピック冬季競技大会(平成10年2月)、第7回パラリンピック冬季競技大会(平成10年3月)が開催された。オリンピック等の開催により、長く市民の願いであった新幹線・高速道が実現し、市内の都市基盤整備が急速に進んだ。また、平成11年4月、政令指定都市に準じた権限を持つ中核市に移行したことにより、これまで以上に、市民に身近な行政をスピーディに処理できることになった。
平成17年1月に豊野町、戸隠村、鬼無里村及び大岡村を編入合併、平成22年1月に信州新町及び中条村を編入合併したことにより明治30年市制施行当時の面積9平方キロメートル、人口3万人足らずの小都市にすぎなかった長野市も、面積834.85平方キロメートル、人口38万人余の都市となった。
現在は、平成19年度を初年度とし、平成28年度を目標年次とした「第四次長野市総合計画」をまちづくりの指針として定めた長野市の将来の都市像「~善光寺平に結ばれる~ 人と地域がきらめくまち“ながの”」の実現を目指し、市民と行政が協働したまちづくりを推進している。
長野市域における歴史の舞台への第一歩は、飯綱高原にある上ケ屋遺跡で、今から約2万年前の後期旧石器時代に遡る。上ケ屋遺跡の人々は、半径十数キロメートルを日常生活の領域として、その中を周回していたと考えられ、飯綱高原は湖沼の周辺に集まる動物たちと、それを追ってきた人々が生活の舞台とした場所であった。
12,000年前に最終氷期が終わると、落葉広葉樹が繁茂する湿潤なモンスーン気候に自然環境は変わり、豊かな森を舞台に縄文時代の狩猟採集の文化が展開する。戸隠地区の荷取洞窟からは、最古の縄文草創期の土器等が出土している。
千曲川河岸の地下4mからは縄文時代前期の集落が発見されており、縄文人が山間地から長野盆地の中州や自然堤防、扇状地に進出したことが確認されている。
弥生時代になると、千曲川の自然堤防上に集落、後背湿地を水田とする稲作農耕が始まる。稲作農耕の開始により社会の仕組みそのものが大きく変わり、ムラ同士の抗争も生まれ、ムラのまわりに大きな溝を巡らした環濠集落が出現した(千曲川右岸の自然堤防上の松原遺跡)。水内坐一元神社遺跡では、環濠から彩色を施した盾が出土している。弥生時代後期には、千曲川流域にベンガラを塗って焼成した「赤い土器」が分布する地域色の強い「赤い土器のクニ」文化圏が形成された。弥生時代も終わりになると、ムラ長の墓が築造され、鉄製武器などが副葬されることから、武力を背景にした階層や当時の緊張関係を窺うことができる。
古墳時代の前半期には、大和政権との繋がりを示す大型の前方後円墳(川柳将軍塚古墳や和田東山古墳等)が累代的に築造され、地域を治める「王」が存在し、広域の緩やかな地域的政治圏が形成されたとみられる。古墳時代中期後半代になると、前方後円墳の築造は停止し、これと入れ替わるかのように積石塚古墳の築造がみられるようになる。大室古墳群では、約500基の古墳のうち80%が積石塚古墳であり、全国的にも特異な合掌形石室が集中して構築されるなど、地域色が顕在化する。
古墳を築造する背景にあった集落としては、千曲川の自然堤防上にある篠ノ井遺跡群(古墳時代中期~後期)、榎田遺跡(古墳時代後期)や浅川扇状地の本村東沖遺跡(古墳時代中期)などの中核的集落と周辺の小規模集落という構造化が一層進む。
古墳時代中期後半代以降の変化は、「東山道」の整備による陸上交通路の重要性の増大や馬匹生産の展開等の社会背景、さらには国造制・部民制・屯倉等の中央政権の政策により、千曲川中流域を中心とする緩やかな政治圏・地域圏であった「シナノのクニ」が「科野」・「信濃」へと至る過程を反映している。さらに、律令制下で誕生した「科野」・「信濃」は、その後、現在に至るまでほとんど領域変化がなく、古墳時代に形づくられた地域的政治圏がそのまま根底に継承されるという特筆すべき地域的特性を有している。
平安時代の『延喜式』によれば、信濃国は10郡から成り立っていた。長野盆地は更級・水内・高井・埴科の4郡で構成され、29の郷があったと記されている。信濃の中で人口の集中する地域が更級郡であり、4郡の中でも中心的な郡であった。
承和8年(841)の地震、仁和4年(888)の仁和の大洪水など8・9世紀の文献には幾度となく天候不順や自然災害が起こったことが書き留められ、近年の発掘調査でもその痕跡が確認されている。平安時代の9世紀には信濃各地の農村で耕地の荒廃や百姓の没落が進み、それまで村々をまとめてきた郡司は伝統的な権威のみで支配を続けることができなくなり、富裕者、新興有力者が台頭する。そうした有力者の郡政の請け負いが政府の政策としても推し進められた。8世紀後半から9世紀初め頃に長野盆地で進められた条里水田の再開発などは、こうした郡司や新興有力者層を国衙が組織して進めた事業であったのではないかと考えられている。南宮遺跡(篠ノ井東福寺)は、当時勢力を持ちつつあった有力者を中心とする集落であった。
飛鳥・奈良時代に国家的性格を持つ信仰としてはじまった観音信仰は、平安時代になると貴族層にも受容され、観音信仰を基盤にした霊場が形成された。清水寺(松代町西条)、観音寺(信更町)、正覚院(安茂里)、地蔵院(若槻)のほか観龍寺(千曲市)、智識寺(千曲市)などには平安時代の観音像が残り、長野盆地でも平安時代に観音霊場が形成されたことが窺える。
10世紀後半以降、末法思想が広まるにつれ、観音信仰の地に経塚が造られるようになる。平安時代の信仰が山への信仰を基盤にしており、北信濃における観音信仰や末法思想の広がりの中から善光寺や戸隠の信仰が生まれた。
末法思想の広がりとともに、鎌倉幕府の善光寺保護政策により、治承3年(1179)に焼失した善光寺の再建が行われる。また、全国各地で有力御家人を檀那とした新善光寺を建立したり、善光寺仏を模造することがブームになり、鎌倉時代後期には全国各地に新善光寺が勧請され、善光寺信仰は全国に広がった。全国から善光寺への参詣人が増加するに伴って参詣路も発達した。『一遍聖絵』(正安元年(1299))、『遊行上人絵伝』(徳治2年(1307)までに制作)は、文永年間に再建された善光寺や門前の賑わいを伝えている。応永7年(1400)には「善光寺の南大門および裾花川の高畠に履子を打つ所なし」(『大塔物語』)と門前の賑わいが記されている。
門前の住人は、大工・仏師・絵師・遊女・琵琶法師・絵解き法師など善光寺如来に直接結縁し世俗を脱した人々で、農村とは異なった町の世界が善光寺門前に展開していた。室町時代には、善光寺信仰と戸隠・飯縄信仰がセットになり、多くの参詣者を集めた。
戦国時代以降、北信濃は領地争奪の場となる。甲斐の武田信玄(晴信)は、北信濃攻略の前進基地として松代城(海津城)を築き、村上氏など国人領主は上杉謙信(長尾景虎)に救援を求めた。武田と上杉による「川中島の合戦」は、複数回にわたるが、永禄4年(1561)の合戦では、両軍合わせて少なくとも1,000人以上の戦死者が出たと推察される。川中島の合戦については、当時の確実な史料は少ないが、江戸時代以降、戦記物や浮世絵など多くの物語や絵図に記される。その内容には虚構や誇張も多く史実とは言い難いが、川中島の合戦に対する強い関心が庶民層に広く浸透していたことを窺わせる。
松代城には、武田氏の滅亡後は織田方の森長可が入り、織田氏の滅亡後は上杉方の村上、上条、須田、その後は豊臣方の田丸と短期間にめまぐるしく城主が代わった。この間、松代城主の政治的権限は強まり、北信四郡(高井・水内・更級・埴科)の中核としての機能が高まった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、松代城には森長可の弟の森忠政が入り、二の丸・三の丸の整備が行われた。元和8年(1622)に真田信之が上田から移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代城は真田氏の居城となる。
初代松代藩主信之の頃はまだ財政的に余裕があったが、江戸幕府からの厳しい課役に加え、度重なる災害によって財政は困窮を極めた。享保2年(1717)の火災では、城を全焼し、その再建のために幕府より1万両を借入れている。
文政6年(1823)に松代藩の8代藩主として真田幸貫が家督を相続すると、武術や学問の奨励や新たな殖産興業政策が展開される。松平定信の次男であり、真田家に養子として迎えられた幸貫は、藩の軍備を増強し、佐久間象山や村上英俊などの洋学知識を有する人材育成に力を入れ、文武学校の建設を進めた。また、養蚕・製糸業に対する本格的な保護政策も進められた。
善光寺は雷火や火災で何度も焼失し、寛文6年(1666)に如来堂(本堂)の仮堂が建てられたが傷みが進み、元禄5年(1692)から本格的な本堂再建計画が始まる。再建費用を賄うため、江戸・京都・大坂で出開帳を催し、どこでも大変な盛況であった。工事は、門前町から類焼しないように本堂を北へ移すこととし、新敷地を造成した。しかし、元禄13年(1700)に町家から類焼し、建築中の本堂も集積した用材も灰燼に帰した。
これまで善光寺が自力で進めてきた再建を危ぶんだ幕府は、自ら介入する形で再建を行い、元禄14年(1701)から宝永3年(1706)までの6カ年間、日本全国を回る回国開帳に踏み切り再建費用を集めた。工事は急ピッチで進み、宝永4年(1707)に落成した。
全国津々浦々の庶民にまで善光寺信仰が浸透したのは、各地で人々が熱狂的に群参した元禄・宝永の回国開帳を契機としてであった。以後、善光寺参りの男女が増大し、特に女性の多いことは善光寺参りの大きな特色である。東西南北から信濃へ入る道はすべて善光寺道となり、路傍に善光寺を指し示す道標が建てられた。
江戸時代後期になると、出開帳の完了、堂舎修復の完成、常念仏日数の区切りなどを機に、居開帳は江戸時代に15回行われ、回を重ねるごとに盛況となった。三寺中の院坊は信者を宿泊させ、本堂・諸道順拝や本堂のお籠もり、御印文頂戴などの世話をするとともに、全国各地に善光寺講を組織した。明和年間(1764~1772)頃には、諸国の檀那場を郡単位で院坊に割り振る持郡制が定まった。
善光寺と同じく、県内外へ広く浸透していった信仰に戸隠神社の信仰がある。現在の戸隠神社は、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社からなるものの、このように神社を中心とした形に整えられたのは明治維新以降であり、江戸時代までは、戸隠山顕光寺を中心とした信仰が主であった。戸隠の歴史は古く、最も古い記録の『阿娑縛抄』によれば、戸隠寺(現在の戸隠神社を指す)が、嘉祥2年(849)頃に学門行者によって開山されたとあり、また、『吾妻鏡』には、天台宗末寺としての顕光寺の名がある。そして、この戸隠山顕光寺が徐々に発展して整えられた、本院(奥院)、中院、宝光院からなる天台宗寺院が、江戸時代までの信仰の中心であった。さらに、戸隠は、そこに古くから農業神として庶民の信仰を集めていた九頭龍権現に代表される神道が一体化したため、多くの修験僧が修行に訪れる神仏混淆の聖地としても栄えていた。そして、慶長以来続いてきた天台宗の僧は、明治維新の廃仏毀釈によって還俗して神職となり、神社に奉仕する形となって今に至っている。また、戸隠神社には、江戸時代以前から、多くの参拝者が信濃国内外から訪れていたために、四方八方から戸隠へ通じる信仰の道が延びている。とりわけ、善光寺から戸隠に通じる表参道は、双方を参拝する参詣者が通るために、最も多くの人々が往来した信仰の道であった。
江戸時代の主要街道は、江戸日本橋を起点とする五街道とそれに次ぐ脇街道があり、長野市域には脇街道の一つ北国街道(北国往還)が通っていた。北国街道は、江戸から来ると中山道追分宿(軽井沢町)で分岐し、小諸、上田、坂木(坂城町)の各宿を通り、矢代宿(千曲市)を過ぎて二つに分かれる。一つは矢代の渡しで千曲川を渡り、丹波島宿から市村の渡しで犀川を越え善光寺宿から牟礼宿(飯綱町)に至るルート、もう一つは松代城下を通り、福島宿(須坂市)北の布野の渡しで千曲川を渡り長沼宿から牟礼宿に向かうルートであった。後者が戦国時代から江戸時代初期の主要道で、上杉景勝が川中島平に進出するために整備した軍事目的の強い道であり、長沼城と松代城を結んでいた。
慶長16年(1611)に北国街道の宿駅の設定が行われたとき、松代道とともに善光寺道の道筋も公認され、次第に繁栄する善光寺町を通る街道が主となっていった。松代道は主に犀川の洪水による舟留めの時に迂回路として利用されたので、「雨降り街道」とも呼ばれた。
北国街道は、善光寺や戸隠へ参詣する「信仰の道」、佐渡で産出した金・銀を江戸や駿府に送るための「佐渡金山の道」、加賀藩前田家や松代藩真田家などの「参勤交代の道」として用いられた。
18世紀以降、木綿や菜種に代表される商品作物の生産が増大するにつれ、手馬・中馬などによる輸送が行われ、商品流通が活発になっていった。
江戸時代の物流を陸上交通とともに担ったのが河川による舟運であった。人や牛馬とは比較にならないほど1回で大量・安価に物資を運ぶことができるため、大河川では通船が往来した。千曲川通船は、寛政2年(1790)に許可を得た西大滝村(飯山市)の太左衛門が西大滝から福島宿まで、文化14年(1817)には松代藩が通船営業に乗り出し、松代から福島宿まで、天保12年(1841)には善光寺後町の商人厚連が丹波島から西大滝まで運航した。
犀川通船は、天保3年(1832)に筑摩郡白板村(松本市)の折井儀右衛門らが新橋(松本市)から新町村(長野市信州新町)まで運航を始めた。
鬼無里は、長野市の北西部、戸隠地区の西部に位置し、犀川の支流裾花川上流域の鬼無里盆地を中心に広がる中山間地の地区であり、川沿いの沖積地と河岸段丘の平地、大部分の面積を占める山地とで構成される。標高は670mから1,562m(一夜山)にあたる。この鬼無里盆地の中央に町の集落があり、行政経済の中心地である。
近世から近代にかけて、麻の栽培が盛んに行われ、副業として畳糸の製造が行われた。麻は農家経済の大半を担っていた主要な産業であった。
鬼無里地区は、遷都伝説、鬼女紅葉伝説や木曽義仲に因む伝承を残し、遷都伝説に因む東京、西京といった集落がある。地区内には奥裾花渓谷(県名勝)やミズバショウの大群落がある。平成17年(2005)に長野市に編入合併し、現在に至っている。
江戸時代の鬼無里は、松代往来、戸隠往来、安曇往来、高府往来、早川道などが町や西京などを分岐点として各地へ通じていた。
松代往来は、町から瀬戸を通り、東方に向かい、戸隠・七二会を経由して途中安茂里で犀川を舟で渡り、さらに千曲川を舟で渡って松代まで約8里であった。
戸隠往来は、主として戸隠山参拝と食糧補給と物産移出に重要な街道であり、町から小川に沿って、高橋・大望峠を通って宝光社に至る道が主要な往来であった。
安曇往来は、町から祖山、十二平、大久保、西京、落合、柄山峠を越えて、糸魚川街道と合流する。西京で分岐して府成、田之頭、押切、嶺方峠(白沢峠)を越えて、糸魚川街道へ通じる最短ルートもあった。
高府往来は、町から大洞峠を越え、小川村の日本記、高山寺、成就を経て、大町街道に合した。
西京から北に土倉、小佐出、奥裾花を経由して越後の北陸街道梶屋敷宿へ通じる早川道は、西京から南へは十二平から分岐南下して、法地・埋牧・馬曲等を経由して落合で大町街道に通じていた。
高府往来、早川道が南下して合流する大町街道は、長野から大町方面に通じる道であり、長野からは大町街道、大町方面からは善光寺街道と呼ばれる。長野からは裾花川を渡り、犀川沿いを西に進み、七二会地区から土尻川沿いに中条、高府、千見を経由して大町に至る上水内郡、北安曇郡の山中を東西に走る道筋である。
これらの道を通して、麻、畳糸、鬼無里紙等が移出され、塩・米・酒・魚等を移入するなど人と物資が行き交った。鬼無里は、村内外の商人の交易の場として、近郷では例のない「九斎市」(1ヶ月に9回開かれた定期市)が開かれた。市は今の町区において天和3年(1683)に開設が許可され、当初は六斎市(1ヶ月に6回開かれた定期市)であったが、安永9年(1780)には「九斎市」になった。市日は1・2・8の日であり、取引された商品の大半は麻であった。現在でも町区で7月15日から1週間執り行われている祇園祭は、九斎市の名残であり、市の神や津島午頭天王に奉納する祭屋台が伝承されている。古老の言い伝えによると「町から小鬼無里まで峯山づたいの古道に、仮設店舗がたくさん明かりを灯して賑やかだった」という。
松代往来、戸隠往来、早川道などの道は、北国街道や脇街道の公街道的性格に対し、庶民が開いた生活の道であった。信州では、江戸時代中期になると貨幣経済が発達して、商品作物の生産が盛んになり、物資と人の移動のために山間部にも新たな道が次々と開削された。これらの道は、民間の商品輸送のための道であり、戸隠や善光寺へ詣でる道でもあった。
戸隠往来などの道は山越えの踏み分け道であったが、長野と鬼無里を結ぶ裾花渓谷沿いの道は両岸が険しいために中々開けず、天保の頃から道の工事に手がつけられ、弘化・嘉永の頃には一通り開通したようである。白馬と長野を結ぶ道路は、改修を重ねて明治21年(1888)に柄山峠を越え、旧北城村森上に至る道路が竣工となった。その後、明治32年(1899)には柳沢峠経由、昭和14年(1939)にはさらに嶺方峠(白沢峠)経由と路線が変更され、現在のような道路になったのは、昭和40年代である。
幕末期の長野市域は、松代藩領と椎谷・飯山・上田・須坂の各藩領、幕府領、塩崎地行所、善光寺領などがあり、入り組んだ支配となっていた。慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いからはじまった戊辰戦争は、北信濃では飯山戦争等を経て、明治4年(1871)7月に廃藩置県が断行される。松代藩は松代県となり、11月の府県制3府72県の再編制による東北信6郡を管轄する長野県に編入される。さらに、明治9年(1876)8月には筑摩県の中南信4郡を合わせて、旧信濃国10郡が長野県となる。
善光寺のある長野村には、明治維新とともに明治4年(1871)6月に県庁(西方寺)が置かれて、県都となり、市街の近代化が急速に進められた。明治22年(1889)の町村制で長野町は地方自治体となり、明治30年(1897)には市制を施行して長野市となった。
明治21年(1888)の直江津線長野駅の開業、明治26年(1893)の高崎・直江津間鉄道全通、明治35年(1902)の篠ノ井線(篠ノ井・塩尻間)の開通と明治44年(1911)の中央線全通によって、善光寺と県庁、長野駅周辺の幹線沿いは近代的市街地が形成された。鉄道の開通により貨物輸送量が急速な増加となり、商品流通が活発化し、商工業を発展させた。
大正12年(1923)7月に、近隣の三輪村・芹田村・吉田町・古牧村の1町3村が編入合併して市域を広めた。これは大正8年(1919)4月に制定された「都市計画法」による都市計画に基づくもので、昭和2年(1927)には安茂里・大豆島の2村を加えて都市計画区域を設定した。実施計画の作成に当たり、これまでの仏都中心から遊覧都市中心へと基本方針を位置付け、商工業地域を設定する案を作成し、昭和5年(1930)6月に事業は認可となった。
大規模敷地を要する官庁、文教施設は市街地縁辺部に設置され、市街地(特に現在の中央通り、善光寺への参道)との連絡道路が建設されることで新しい町が生まれ、近世までの善光寺への参道(南北軸)が明治以後においても都市軸を強く既定して市街地が拡大した。
千曲川の右岸である河東地域の人々は、鉄道線からはずれて生活や地域の発展の上で大きな不安と焦りを感じていたが、大正11年(1922)に河東鉄道の屋代・須坂間、大正15年(1926)に権堂・須坂間、昭和3年(1928)には長野駅まで開通した。昭和4年(1929)秋に発生した世界的大恐慌により、糸価・繭の価格が暴落し、養蚕農家に深刻な影響をもたらした。農家の窮状を救済するため、市による公共工事や県による不況対策が実施されたが、蚕糸業は急速に衰退をたどった。経済的危機に遭遇した蚕糸業の打開のために、国策である満州移民政策が進められた。長野県の満州移民への取り組みは、昭和11年(1936)には具体化し、昭和20年(1945)までに長野市からも入植している。
昭和12年(1937)7月に日本と中国は戦争状態に突入し、防護団、婦人会・青年団・警防団などが結成され、勤労動員が行われた。昭和16年(1941)8月、太平洋戦争が勃発すると極度に物資が不足し、戦時下の耐乏生活を余儀なくされ、市民生活は悪化の一途をたどった。太平洋戦争の末期、昭和19年(1944)11月には、松代町の象山、舞鶴山、皆神山などに大本営とその関連施設の地下壕掘削工事が軍部により行われ、昭和20年(1945)8月の日本の敗戦により、未完成で中止された。8月13日には、アメリカ軍による空襲があり、長野市内各地で死亡者の発生や家屋焼失など大きな被害を受けた。
昭和20年(1945)の敗戦以降、物資不足・インフレ・人口増等の社会的状況の変化が現出するとともに、義務教育六三制の実施、新制高等学校への移行、信州大学の発足や市町村消防、自治体警察、公民館設置、生活改善、保健福祉などの体制整備が行われた。しかしながら、自治体財政の窮迫から更級郡篠ノ井町周辺(昭和25年(1950)7月)、埴科郡松代町周辺(昭和26年(1951)4月)では、合併が行われた。さらに、昭和28年(1953)9月には「町村合併促進法」が公布され、上水内郡・更級郡・埴科郡のほとんどの町村で合併が進められた。昭和31年(1956)6月には「新市町村建設促進法」が公布され、昭和34年(1959)4月に上高井郡では若穂町、5月には篠ノ井町と塩崎村の合併による篠ノ井市が設置された。昭和41年(1966)3月には「市町村合併特例法」が施行されると、昭和41年(1966)10月に2市3町3村(長野市・篠ノ井市・松代町・川中島町・若穂町・更北村・信更村・七二会村)の大合併が成立した。
昭和30年代から40年代の高度経済成長期には、中心市街地での百貨店の開業、物流基地の整備(青果水産物市場団地、長野卸センターなど)、工場誘致や工場団地の設置に力が注がれた。好景気による都市部の商工業化の進行は、農山村からの大量の賃金労働者を都市へ集めることになり、第2種兼業農家の増加、第1次産業人口の低下をもたらし、農山村の過疎化を招いた。
自然災害では、昭和40年(1965)から松代群発地震が発生し、有感を加えた地震総回数は64万8,000回を数え、昭和44年(1969)には終息状態に至った。風水害では、台風による犀川や千曲川、その支流の堤防決壊などで農地や家屋の被害を度々受けた。昭和60年(1985)の「地附山地すべり災害」では、26人の犠牲者と多くの住宅被害を出した。
昭和40年代の後半から、「まちづくり」という言葉が盛んに使われるようになり、市民参加による祭り、歩行者天国、野外彫刻の設置など心の豊かさや地域の活性化を目指したまちづくり運動が動き出した。昭和50年代に入ると、大がかりな都市基盤整備事業や土地区画整理事業が相次いで実施され、市街地や郊外でのまちなみ景観や交通・商業事情は大きく様変わりした。
一方、農村部では、昭和30年代半ばから農業人口の減少や高齢化が進み、村おこしの必要が叫ばれ、地域活性化のための産直交流、特産品栽培、農産物のオーナー制度など様々な試みが行われた。
昭和40年代からの自動車の普及に伴い、中心市街地の空洞化は急激に進み、大型店の多くは郊外に新設されるようになる。マイカー時代になると、自動車道の早期着工の要請が強まり、昭和56年(1981)3月には、中央自動車道の諏訪ルートが完成したため、長野線の早期開通が待たれることになった。昭和61年(1986)から、高速道用地の松代町松原遺跡、若穂川田条里遺跡などの緊急発掘調査が始まり、平成5年(1993)3月に長野自動車道・上信越自動車道(豊科I.C(現:安曇野I.C)から須坂長野東インターまで)が開通した。平成8年(1996)11月には、更埴ジャンクションから藤岡インターまでが開通した。
平成3年(1991)6月15日に第18回オリンピック冬季競技大会(平成10年(1998))の開催都市が長野市に決定したことで、新幹線の早期実現が不可欠となり、平成9年(1997)10月に長野新幹線が開業した。平成10年(1998)2月、20世紀最後の冬季オリンピック競技大会が16日間にわたって長野市を中心とする5市町村を会場に開催された。3月にはパラリンピック冬季競技大会が10日間にわたって開催された。平成17年(2005)2月から3月には、第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会が開催された。
オリンピック後の長野市では、オリンピック競技施設の充実、大都市圏との時間的短縮により、国際会議観光都市として、様々なコンベンションが誘致・開催されている。
平成元年(1989)12月の国の「地域中核都市」構想を踏まえて、長野市は平成11年(1999)4月に中核市に移行した。また、国が打ち出した「平成の市町村合併」に際し、平成17年(2005)1月に1町3村(豊野町・戸隠村・鬼無里村・大岡村)、平成22年(2010)1月に1町1村(信州新町・中条村)の編入合併を行い、現在に至っている。